覚者慈音493  三世と四世論 重魂と混同し易き事柄について  インショウ、ミキョウ貴尊講義

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の47
  第三十七     重魂と混同し易き事柄について                          その三              
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 重魂ももとより入魂なり。されどその相違を簡単に説明すれば入魂とは訪問客に等しく重魂は同居人の如しと思はば諒解することを得るならん。又入魂の中には母が妊娠中より既に入魂して重魂となり居るもありて是を見分くるには非常なる努力を要す。されど今後学問進むに従いて是等を鑑別なす機械も発見され事実の証明をなす日も近かるべしと我等は信ずるなり。
 兎に角入魂或はむ重魂に関して混同し易きものは念なることは今迄語りたれどその念の中で最もまぎらはしきは死念なり。世人の称へ居る生霊死霊とは即ち生念死念と称するが適当なるべし。生念は先に語りし如くなれど死念には又別個の関係ありて、ややもすれば魂と誤認すること多し。例へば人を怨みて死にたる魂はその念を抱きて相手にむかう時念は怨みの人に入れど魂は侵入なすあたはざるなり。何となれば念は魂に通ずるが故に侵入すれど魂は魄に虐げられて追はるる故なり。此理も亦因果論に於て詳しく語るべし。念は生前より人より人へと伝わり其が怨まるる人につうじて一種の暗示となりて怨まるる人の魂に喰い入り居る故に、死したりと聞かば忽ち錯覚作用を起し居るにつけ入りて念の力ははたらけど、魂は空となり居るにより力は減退する故に魄に追われてにぐるの他なきなり。怨まるる人の枕辺に夜な夜な幽霊の現わるるは魂は念をたづさへて幻影を見するも暗示が生みし錯覚作用の部類に属するなり。もし人ありて汝に来り何処の何某はいたく汝を怨み居れりと語らば汝は彼より怨みを受くる理由なしと答うるも既に是は暗示となりて潜在す。是即ち生念なりと知りて可なり。ここに疑念を抱くことはあるならん。其は他の事にもあらず。従来貴尊方が仰せられし魂魄一体とならざれば念力は効果なしとの原理より考うる時、動物は魄なしと云ならば念力もあらざるならんに動物にも念力ありとせば矛盾なし居るにはあらざるかとの質問を慈音より受けたり。我等この質問あれかしと待ち居たりしなり。即ち人魂と獣類魂との相違はここにあるなり。又人間の中にも未だ獣類の殻を脱せざるもあるなり。動物根が清除せられて人魂と変ぜしめんがために魄は作られて大なるはたらきを有するに進化したるなり。動物には人間の魄に相当する魅力根あるは摩擦根とも仮称すべきものが固定魂の中に加わり居りて念力をつくり居るなり。考へかたによれば陰魂と陽魂が重魂となりて一体となり居るとも見て差支なからん。故に人間の如く魂魄一体の修行の必要なければ一見便利の如く思わるれど事実は然らず。今この事について詳細は次の講に語るべし。

×

非ログインユーザーとして返信する