覚者慈音437

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第十期至らば如何なる変化を生ずるか    其一
                     その37
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 十期の拝み進むに従ひて、ここに天使の来ることありて、又々錯覚にて我を苦むるかと思ふことあり。是ぞ前に語りしとは全然其模様を異にしたる現象にして錯覚にはあらず。前に来りしはめざめ居て夢を見たるにすぎざりしが、十期末に来るは霊に感じ来るにて錯覚作用にあらず。今この模様の理論をいささか語りて行者の為にせんとす。拝、進むにつれて霊光は行者の霊に光きて異彩を放つ。是既に天界との交はりに入りたるなり。されば天界の有様は霊より霊に伝はり、其が己の魂に映じて一切は知ることを得るなり。所謂霊と云ふ望遠鏡によって霊のまなこに映じ、又霊の受話器によって魂の耳に声を聞くと思はばほぼ察せらるるならん。即ち全宇宙は時間空間及び位置を有せず。故に距離もあらざるによって霊は霊光に同化して、魂に通ぜしむるなり。されば魂には霊より知らしむる故に天使を見もし、又聞きもすれど、世人の住居なし居る場所に天下り来るにはあらざるなり。是錯覚にあらず。故に此現象は喜びて拝みを重ぬべし。
 総じて世人は余りに猜疑心強くして人の行ひを見て、己なし難ければ其を信ずるあたはず。否定するは一般の風習なり。わけても空なる霊の話などに耳を藉す者は一種の好奇心より娯楽的なるべし。
 我の語る天使のことに対しても、半信半疑なることも我は承知し居るなり。故に世人は思ふならん。前に語りし天使も錯覚なりとせば、後に来る天使も錯覚にてはあらざるかと。是に関して我は答へん。然り是も錯覚なり。然し同じ錯覚に対しても種々あり。然して是を簡約せば虚無錯覚、及び実夢錯覚の二種に区分することを得るなり。然して先に来りし天使の場合は虚無錯覚に属し、後の場合は実夢錯覚に属すと知らば可なり。とかく浮世は夢なりと云ひ居るにてはあらざるか。喰へば生きらるると思ふも実夢錯覚なり。一曲の音楽を聞きても亦演芸を鑑賞するも、亦講演を聞き美文を読むともみな肉耳肉眼は実夢錯覚なれど、精神感応は虚夢錯覚となるべし。そは感ずる人の心に相違あるによってなり。花を見月を見る肉眼はすべて同じければ、是実夢錯覚なれど、見る人の心持ちは其々異なるにより、是は虚夢錯覚となる。すべての物、在りと思ふも亦無しと思ふも錯覚なり。世人は錯覚に生れ、錯覚にて一生終るなり。
 禅家の僧は、曰ふ。「一人来て一人かへるも迷ひなり、来らず去らぬ道を求めて」とか云ひしことも聞きたり。不去と云ひ、又不来と云ふも形を有するによってなるべし。もし形を有せずと云ふも自己を中心として不去不来と云ふことを考ふるは即ち生死なるべし。さればその自己を取り去れば不去不来は成立せざるなり。然りとせば不去不来は空となる。されど空と云ふも亦迷ひならん。何となれば、空と云ふ言葉ありて是によって、空を察するを得るならば空も亦錯覚にして迷はしむるによりてなり。我、哲学者にあらねば、斯る理論は避くべし。
 虚夢錯覚、実夢錯覚何れもみな空なりとせば、何れの錯覚にくみするをよしと考ふるかは、世人の心任せなれど、我は実夢錯覚を求めたるなり。嘘から出た真実と云ふ比喩の如く虚にも実あり、実にも虚ある錯覚は迷ひにして、すべて実なる錯覚ならざるべからず。即ちその絶対なる実夢錯覚こそ我等が得たる錯覚なりしなり。
 世人は第十の拝みに進み来りて此処に初めて迷ひの夢よりさめて、絶対迷はぬ夢を結ぶに至るなり。是ぞ不退転の境涯になるにより不去不来の地位に置れたるにて自由自在とは此期より始まると知るべし。





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