覚者慈音438

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第十期至らば如何なる変化を生ずるか    其一
                     その38
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 第十期の拝みが進むに従ひ、霊光と霊との交はりは、魂を養育してその位置と其働きの力を益々向上せしめて其個々に有する特性を発揮せしめて尽る処を知らざる底に迄引き上げ給ふなり。ここに注意しおくことあり。そは他にあらず。我、先に語りし肉体拝に来りし天使は錯覚にして、霊的拝に来る天使は錯覚にあらずと語り、今又すべては錯覚なりと語りしにより矛盾したる事を語ると思ふならんも、そは決して矛盾にもあらず。又出鱈目にもあらざるなり。前に説きたる人工的より生ずる幻影を錯覚と云ひ、霊的は実夢なるにより錯覚にあらずと云ひたるにて、肉体拝の錯覚も虚夢錯覚に属することは云ふ迄もなきなり。故に世人は是等の説明を誤認して、我のあげ足を取らんと考ふることなきよう注意しをくべし。
 さて次ぎに語らんとする処の遊魂帰魂、又は魂換と云へる事に対して世人は伝説などより彼是と聯想して思ひ迷ふならん。即ち十期に達し、更に進んで十一期近くなるに従ひて、是等の事がすべては理解することを得るなり。斯く語らば世人はいよいよ不審を覚ゆるならん。されど是等の事柄の道理は不思議にもあらざるなり。例へばここに一つの例をあげて是に依って不審を晴らすべし。
 或人、夜更けて田村を過ぎたるに田圃の中に怪しき火の魂屑となりて見たれば、狐狸のいたずらならんと思ひて、其火の玉を追ひかけたるに、火の玉はふらりふらりと飛び行くにぞ、何処迄もと追ひ行きたるに、とある家の前にて光は消えたるに、暫時戸外に佇みて様子をうかがえば、其家の誰かが倒れ居たりと云ふ話あり。この種の伝説は古今一般人の多くの人が聞きもし、又見もしたる話ならん。此現象が日々数多きことならば学者間に於て既に研究なし得たるならんも、斯る事は稀なれば未だ不明にして学理の証明を得られず。唯人だまと云はれ居るなり。もし是が人間或は他の動物の魂なりと見なすならば、日々死亡する動物の数は莫大なればその光にて昼夜、空を明るくするならん。然るに事実は然らざるべし。然らば是は如何なる理由あるかについて、いささか我等が修得したる処を語るべし。
 先に貴尊方が話されたる如く人間その他の動物には気光素の具備ありて生存なし居るとの理論は、既に書物によって知り得たるならん。然してこの気光素が平均なし居る間は人だまの現象は起らざるなり。人だまとは光素の現はれなればなり。今少し説明すれば光素の働きは、幻影を見する力を有する燈火とも思ひて差支なし。この現象は気体と光体を分離せしめて起るものにて、行者が修行する遊魂とか、或は帰魂とか称して錬磨し居るはすべて是なり。所謂気を潜在せしめて光を表面化し、是を外部にしぼり出す、術なり。故に一般の人の中には斯る現象の生ずるは既に死期迫りたるか、或は一種体質の変調なるか。又は特殊の病弱者にありて見らるる現象にして、一般人にはたえて現はれざるなり。斯る現象が起りて光波が外部に現はるるも、さして光の鮮明ならず。然るにたまたま気象等の関係によって蜃気楼と同様なる現象によって肉眼にも映ずる事あるなり。一般人の死期せまりたる時、光波は外部に飛散するも是には気波も共に加はりてい従ふにより、肉眼には分明見る事あたはざるなり。斯く語らば至極簡単なれど是等に関して詳細説明すれば、容易の事にあらず。是等に関しての詳細は他日因果論に於て語る事を約しここにはその概要を述ぶるに止めをくべし。 
 

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