覚者慈音436



テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第十期至らば如何なる変化を生ずるか    其一
                     その36
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 第十期に至る迄の拝みを重ねたる人なれば、総ては消化されて血となり、肉となりて、真の健康を保つ事を得るなり。霊なる親にまみゆる喜悦は既に過ぎたり。今後は何を求むべきか。求めずとも可なり。今後は逆に道を照らす光明となりて、背後より来る者の脚下を照らして迷はしめざるよう力むるなり。
 先に教主が仰せられし如く、一法を修すれば万法に通ずとの言葉を世人はよくよく咀嚼して翫味せば、その大要は頷かるならん。一法とは何か。即ち念力なるべし。その念力を巧みに用いて衆生を導く。是即ち法なり。故に念は学問をして、念の理を究めたりとて、そは念を知るのみにして用をなさず。是を実行に移して初めて念の力は知らるるなり。念の理論を知りて喰はずば真の味は知り難し。されば教主は一法を修しては行ひて完全に行ずるを得ずば、次の法を学ぶべからずと誡められしも此理なり。又法然と云へる僧は、念の心をさとりて申す念仏にねあらずと教へしも此理なりと知りて可ならん。我等余にりて行じたるは念力増進にその半ば以上費し居りたるなり。念を強うせんが為に、肉体を苦しめ、心を苦め、其に打ち勝つ修行をなしたるも念力増大法に過ぎざりしなり。然るに世人は斯る専門的行をなさずとも唯拝みによりて念ぜらるるも是、法の妙味なりと知るべし。 念力を測る尺度として試みるは肉体なり。念力強く働かば肉体の苦患は耐え得らるるなり。日蓮の弟子が焦熱したる鍋を頭上に戴かされて死せざりしも、題目の力にあらずして、念の力の強きによるなり。念は修行せば無限に働く其範囲も極めて広し。念とは貴尊が説かれし気光素の働きを云ふなり。気光素は天界にも通ず。世人は誰彼の区別なく此組織を有す。然してその修行の如何によって強弱の区別はあるなり。故に拝む心が完全に備はれば気光素は其に順じて働くと知りて行ずべし。
 十期の拝みに達するを得たらば、念の力は自由自在思ふが儘の働きをなすによって、肉体に用ゆれば病苦を救ひ、精神に用ゆれば悩みを助く。念の力は善悪両方面に働く。故に人を呪へば人を倒し、救はんとせば救ふ事を得るにより、その是非は霊の指図に従はざるべからず。即ち霊は善悪何れを嫌はずして和すれど、最後は悪を払ひ、善を採用するなりとは、教主の教へられたる如し。故に霊に従へば悪法は行はざればなり。念力は拝する法によらざれば増大せず。故に精神拝にては光気素念となり、霊的拝に進む従ひて気光素念となる。故に拝みは怠る事なく力むべし。合掌低頭し、又頭をたれて手を額にあつるも即ち発電の法に合ふなり。故に古来野蛮時代と云はるる頃より、民族が知らず知らずの間に、此法は本能的に行はれありし事は周知の事実なれば、人類にはすべて低頭は肉体的発電法より何か研究の道を、学理的に究むるも無意味にあらざるべし。余事はとにかく拝する心は、念を拡大する働きとなる事は、学理上至難にはあらざる事は先にも語りし如くなれば疑はず実行すべし。念力に対しては貴尊が詳しく説明せられあればここに多くを語ることを避くべし。 

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