覚者慈音363

未知日記 第十巻  帰途案内記



                      その20
 更に八七六流界に到る迄
 慈音再童の座につく                            
                  セイキヨウ貴尊 講述


 九流界以上の人間は全人悉くみな一体なるが故に、一人誤ちを犯せば万人悉くみな其責を負ふ。故に誰も罪を犯すものあらざるなり。世人の世界は是に反し我罪は我その責を負へば其にてすむとの観念なるが故に、個人主義となりて罪を犯すこと多し。我等世人に語りし唯我独尊に対して、世人は曲解なし居る人少なからずあらん。我、尊ければ他人も亦尊しとの考へを深くせば、我等の説を正しく認識することを得るなり。我尊ければ他人も亦尊し。その尊さは我のみにあらず。全人悉く尊しとの考へを起さば、我罪は他に及ぼす関係をも考慮に入れざるべからず。然るを世人は唯我独尊と聞かされて、己のみ尊しとして他を軽んずるが故に、ここに他を虐ぐる如き行為を敢てして、恐れず憚らぬ如きは実に嘆かはしき事ならずや。我尊とければ彼も亦尊し。彼尊とければ我も亦尊しの道理より、すべて対して尊む心を一様に持つならば、全人悉くみな平和に生存することを得ることに着眼せば、世の中の進歩発達はなし得らるること火を見るよりも明らかならん。さればこそ上界の人類は罪悪を犯すものあらざるなり。我罪を犯さば全人に及ぶとの心を失はざるによって、誤ちを犯すもの一人としてあらざるなり。全人の罪は我の罪となるとの道理も是によって知らるるならん。所謂自他一体なるが故に、自らは他に、他は自に帰する関係を明らかに知らしめんが為に、イエスは十字架にかかりたるなり。世人はこの理を知らず。唯我等の罪をイエスが一人責を負ひたりと感じて、彼に信仰を厚ぅし居れど、イエスの考へと世人の考へとには斯くも隔たりあるなり。即ち一人の罪悪が万人の罪悪となり、万人の罪悪が一人の罪に帰すとの理を解するならば、小さしと思ふことが広くならば、際限なく拡がることに考慮を廻らさざるべからず。例へば一人の伝染病患者が現はるれば千人万人の多きに至らん。すべての道理はここに存す。所謂小石投水の其如し。一個の石を水に投ずれば波紋は全部に及ぶ。この事柄より上界の人々はすべて罪を犯し過失を犯すもの絶えてあらざるなり。我斯く語る時世人は云ふならん。然らば八流界の隠形者が、何故ぬけがけの功名をなさんと計りしかと云ふ例に、対して質問するならん。是は事実にあらず。上界の様を世人に知らしめんが為の方便の例話にして、仮に斯るものを作りて語りたる迄にて、事実に於て斯る愚をなす者一人としてあらざる事をここに附言しをく。
 仮に九流界上中下部の人ともならば、世人の世界に智者学者として尊とまれ居る釈迦キリスト、その他の学者等の如きは、殆ど全人悉くその学識を有し居るにて、八七流界に至っては小児と雖も斯くの如き、知徳兼備のもの数限りなく存在なし居るを我等は知る。かくも上界は世人の世界とすべてに於て相違ありと知らば可ならん。六流界ともならば八七流界の比にあらず。その知徳の進歩が余りに大なるが故、是を世人に語るにあたっては何を以てして知らしむべきかに、我等は苦しむ底の人類なりと知らば可ならん。世人の世界より六流界の人を見るならば神以上の神として崇拝するならん。されど彼等は神にはあらず。唯智慧の進化なしたる人類にすぎざるなり。されば六流界迄到達するにあらざれば、真の人となりたりとは云ひ難し。人智向上して頂点に達しなば、即ち六流界にて終ると思ふも可ならん。

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