覚者慈音364

未知日記 第十巻  帰途案内記


                      その21
 更に八七六流界に到る迄
                            
                  セイキヨウ貴尊 講述


 例へば六流界の小児が全界悉くの小児と、其日其日を嬉々として遊び居ると聞かさるれば、世人は如何に考ふるや。其すら認識する事難かるべし。例へば汝の世界を例として語らんに、朝にめざめたる日本人が、アメリカの小児と手をつなぎて遊戯なすと聞かさるれば、是を如何なる方法にてなし得るかとの考へを、学理より推測して判明する能力を世人は有せざるべし。然るに事実この界の小児はかくの如きことを当然として、あやしまず又不審するもの一人としてあらざるなり。一事が万事かくの如く進化なしたる世界なるが故に、是を世人に知らしむるの難きことを諒とせよ。智識進めばかかることは敢て不審するには及ばざるなり。距離を考へずば是等の事は頷かるる筈なり。学理進みて距離をせばむれば、かくの如き業は至難にはあらざるなり。世人は日本とアメリカが表裏の隔を考ふるが故に、斯ることのなし得べからざるを考ふれど、距離を縮小して接近せしむれば、手と手をつなぐは何等不審するには足らざるなり。
 例へば鏡の前に汝は立ちて鏡に手をさしのぶれば、汝の手と鏡の手と接近する如く距離なくんば、かかる事のなし得らるるは当然なるべし。唯汝等の考へにては鏡に映りしは彼にあらず。彼まさに是汝なりとのみ考ふるが故に思慮は浅し。世人は己の智慧の及ばざる事を棚に上げて、何事も表面のみ知りて深き処に迄研究を進めざるが故に、智慧は行き詰りとなりて働らかざるなり。もし世人にして不思議なる事あらばあくまで追究して、その理を究めんことを我等は切に望むものなり。世人は一つの魔法を行ふものを見て、唯感心して其にて終る。他人がなしてなし得る魔法ならば、其理を智慧によって知るならば、我にも行ひ得る事を考へざるが故に、不思議として取り扱はれ居るなり。世人の世界は唯物本位なるが故に、機械器具に重点ををき、すべてを機械器具に依て証明せんとなすため、二重三重の労苦と経費を要するため、複雑化して却ってその真理を究むる事を得ざるなり。是を智慧によってその理を究め、有意義なる事ならば、その後機械を考案して広く用ゆれば、其にて宜しく、無意義と思ふ事ならば理を究めて、是を捨てなば無駄なる労苦ははぶかるる道理あらん。八七流界の人類はすべての事柄を究め尽して、益々その度を加へ居るによって、人類の進化は顕著となり居るなり。六流界に至らば既に人類のすべては研究なし尽して、最早其以上の必要を感ぜざるに至り居るなり。故に人間としての本分は全く完成なしたるなり。是天の使命をなし遂げたる人類なりと知らば可なり。




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