覚者慈音335

光明論 上巻 巻の一
                その19
  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 汝等が国風と欧米の国風との隔を見て、是を神の道より否自然の成立より観察して深く判定を下さば実に不思議なる結果をもたらす。汝等が道徳は欧米人には理解する能はず。然して欧米思想は汝等に理解なし能はざること多からん。ここに至らば汝等は思ふならん。もし神の道は一にして人間も亦神の造りたるならば、斯る誤差あることなからんに疑はるるは神の道なり。信ずべきか信ぜざるべきかと。我、光明についての大事は此迷ひあらん事を思ひてなり。既に幾度も語し如く相対より複相対に更に複々相対へと変り行きたる結果今日に至れり。汝等が世界の斯くなり来れるは当然なり。例へば人間生活になくてはならぬ塩が分解さるれば人命を奪ふ毒ガスの材料となるに等し。人生観には身勝手の規律を設けたるに依て、神の道をはなれて人間に都合よき律法に化せしめたればこそ、東西相反したる結果は神の眼よりのがれたる、否のがれんとする今日を生み出したり。欧米はもとより汝等の国に於ても古今の相違は著しく変化して神より日一日と離れつつあるは遺憾なり。さるに依て教主は是を愁ひ給ひ居るなり。汝等は些細なることを人の為に尽しても報酬を望まざれど、欧米人は然らず。是を望むは当然として却って望まざるに不審を抱くなり。かるが故に体当り攻撃等は野蛮行為と一笑に附して、是を称賛する如きは無きも頷かるるならん。是等の是非は光明論を聴聞せば明らかに示さるべし。さて話を本旨にかへさん。
 燭の光も燈燭の光も石油洋燈或は電燈或はネオン等々の光に於てその輝きの度相違あれども光明と云ふに変りなし。色は光に依て見ゆれど夜、灯火にて見ると相違あらん。汝等夜商店にて衣服を纏ひ、昼見なほして相違せりと云ふ体験はあるならん。是等を科学より説明するは本意にあらざれば略して是等の誤りは汝の肉眼の相違か、或は燈火の罪かを考へみよ。斯る事は些細のなりと早合点なす勿れ。是を汝等の修養について考究し見よ。汝等の心の光は物を照す力に相違ある事に思ひ及ばば是を等閑に附するを得ざるべし。太陽の光が正しとせば心の光に相当する燭の光は偽はりとなり、太陽の光を神として其光が誤りとせば神は不信を与へしと云ふ論旨に達するならん。然れども太陽には七色九色具はりあるに依て、人間が模倣せる太陽燈は色を色を見するにやや真に近けれども、太陽には及ばず。又紫外線に於ても太陽とは同一ならざる憾(うら)みあるなり。されば心の光に真を得せしむるを得ざるかと云ふに、我は真を得せしむるを得と答ふなり。其は光明即ち霊光を纏はせば太陽と同様光を発するによりてなりと。
 教主の燭尽きて一本の線香に変る比喩を汝等は命終りてと思ふは正しからず。人間としての修養、人間としての任務が完全に修得して実行に移す力備はりたればとの意味を燭尽きたれば、即ち人間学を卒業したらばと云ふ事にして命数尽きて終りし後の意味をも兼備せしめたる教へと知らば可なり。学業全くなりてさて上級の学校に進む、即ち燭学校より線香学校に入学すると心得べし。此学校の規定には花水茶菓珍種の課目含まれありと知らば可なり。今迄の学科は実在なるによりて所謂有意物論なりしも、今後は無意物論とも云ひ得る学徳の教授を受けると、其覚悟して学ばばさとりも却って容易ならんと我は信ずるなり。汝等がよく口にする彼の人は学徳兼備したる人なりと。即ち汝等が今迄学びしは学問のための学問なりしが今後は徳のため学問を修むるなり。


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