覚者慈音336 光明論 上巻 巻の一 華飯茶水等を神仏に献ぐるは何の学問をなし居るかを

光明論 上巻 巻の一
                その20
  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 華飯茶水等を神仏に献ぐるは何の学問をなし居るかを知れるか。香華飯等、茶菓珍種を捧ぐるを供養すると云ふにてあらざるか。誰を供養なすなるか。よく考へ見よ。汝が祀り拝するは仏ならずや。仏即ち結定したる覚者ならずや。覚りたるものの徳に浴さん事を願ふなれば即ち汝自分の修養の為に徳に浴さんが為の祭祀ならずや。捧ぐる一本の花について考へ見よ。花は開くためには種々様々の障碍に耐へて美はしく開きたる如く、汝のありし日の行為は正しかりしに依て、汝の徳は花の如く美はしく香ひ照り映ゆるなりとの意味を表現したるにはあらざるか又捧ぐる一椀の飯に於ても亦感謝の心にて祀るなり。即ち汝が世にありし頃の働きの辛苦艱難のありたればこそ、我家は安全にして正しきに依て我等今日安らかに日を送るは汝の恩恵の賜物なりと感謝の心にて捧ぐるならずや。故に飯(はん)とはすべて生活に必要なるものを総称したる代表物と考ふべし。即ち衣食住を飯によって代表せしめたるなり。又仏に点茶するは「汝、世に在りし頃には此茶の如くもまれ、水火の苦難ありても屈せざりし為色は失はれざりし」と
 其の業績を称賛て、我も此徳に浴さんことを誓ひてのしるしならざるべからず。すべて此心構へならば修養の徳は顕著とならん。斯る事の弁(わきま)へなくして無意義の神祀り仏祭りは何等の効果あるものにあらず。意味なき仏祭り神祀りは却って迷信を惹起し又神仏に不敬不遜となること多し。汝等の俗言に「触らぬ神に祟り無し」とかは、是等を云ふならんか。すべて捧物は此品物にあらずして、其物の持つ心を献げて彼の徳を祀り、己の心の徳をつむ資料とせば尊くして彼にも通じ我にも徹す。信仰には斯る些細なりと考ふる処に深き真理ある事を見のがす勿れ。我如何に種々の事柄を引用して汝等に示すとも、汝等は是を書棚の書物に終らさんかと考へ及ぶ時、いささか感慨無量なるあり。然し我の説は別として教主の教へを空しくせざらん事を特に特に汝等に注意しをくべし。

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