覚者慈音334

光明論 上巻 巻の一
                その18

  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 形ある光と汝等が肉体は地球とか、或は娑婆とか云へる位置を有する処に作り出ださるが故に、昨日はここに住み居ても、明日は何処に住ぅかは予知する力の光を持ち居らざるべし。此位置を変更するは限度即ち時間空間あるに依て知らるる限度なるべし。斯る不自由なる光の心、或は肉体の光も皆精神の意あるに依て作られたり。その意のある処を悟り得たるものこそ、即ち引き上げらるる智者にして是をさとり得ざれば、さとる迄幾回となく形を有する位置に移さるるは汝等が学業に於て、試験に合格すると不合格にて同じ位置に置る、と同様と考へて可なり。神の律法は人にのみあらず。一切の動植物にも其々に光を与へられあるなり。恵みの光を知らずして形の光に囚はるるによりて欲望の光は強くなり、我身の光の余りに貧弱なるによりて他の強き光を妬む嫉妬の心を強くして燈燭の丁子を長くして身の燭を減ぜしむるに至る。故に不変無極の霊光は細き一本の燭にも輝くをさとらば、我にも霊光は輝き居るを早くさとりて燭を大切に輝すことに努力せざるべからず。此理を知るならば他を妬むなく自分は自分としての分野を忠実に守るを得らるるなり。
 教主は是に重点を置れて光を燈燭の如しとの比喩を引用して導きの光を与へられたるならん。燈火に油を少なくして燈心を数多く入れなば一瞬明るくして忽ち暗黒となる如く、己の力を過大にすれば一時は堪ゆる力とならんも忽ち倒るべし。是分に過ぎる故なり。されば燈心少なくとも油を絶すことなくんば光は持続せん。
人の中には何日迄此世に生をうけたりとてさしたる変りなし。同じ生活ならば面白可笑く太く短くとも可なりなどと称して、我儘気儘の振舞をなして世を害するあり。甚だしきは親に孝養を尽すとは何故に、斯る行為をせざるべきか、親は我等を生み独立なす迄、我等を監督するは親の任務なり。我等も亦親とならばかくなせば其にて足る。然るに特別に親のためになす要なかるべきと、孝道を如何に語るも理解する能はざるなり。男女享楽に浮身をやつして世は娯しとして満足なしつつあり。是等には神を知らぬかと思へば然らず。神は我等に此娯みを与へんとて作りたるなり。されば我等は神は偉しと思ふのみにてすまし居るもあり。彼等は享楽の為には他を顧みず、彼我は我として思ひ遣りなきかと思へば又恵み施しもなす。然れども是は事足りて余れる中よりの施しに過ぎず。燭光を強くして光り、拡大を計り他を暗くせしめて優越に満じ居るあり。是等を神の道と考ふるや。果して斯る事にてよしとなすならば神の道などと云へるものは案外平凡なるものにあらずや。動物性道楽を恣(ほしいまま)にして人生観を喜びその享楽を他に比していささか変り居るを優越と考ふるは余りに劣等ならずや。放蕩息子が傾城に遊びて金銭を湯水の如く使ひ遊ぶは人間の価値高しと考ふるに等しと思はざるや。斯る浅薄なる理論にて我は神の道を語るにあらねど、いささか汝等が心の迷ひあるを知るに依て、枝葉にわたり居るを承知にて今少し語らんと思ふなり。



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