覚者慈音301  大霊界入門記  後編   第八、セン 完成門 (仮称)

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO247
大霊界入門記    後編                 
第八、セン 完成門 (仮称)                                                                  その1
                       教主寛大講述

 
 センとはぬきん出るの意味にも通ず。又択ばるるの意味にも通ふ。フクの門にては即ち神の家に帰りたる姿なりとせば、神は帰へりたる我子を験して、然して是を長く手元に置くか或は再び修業に出すべきかの、ためしを行ひて然して後是を定む。所謂センとは是等の関係あることと思ふも可ならん。もし神の眼によしと見るならば神は長く止め給はん。されど力なければ又もやギョウの門に移さるるやも計られざるなり。されど最早センの門に迄至る力をそなへ居る者なればチの門へは移されざるは是又察せらるるならん。天界に於てもかくの如き験しは往々見受けらる。これ未だ真の絶対界にはあらざる故によってなり。センの門に合格すれば既に絶対界となりて他に転ずることはあらざるなり。ものには順序あることは是等の例に徴しても明らかならん。
 当年十月六日こだま会に於て泰岳が語りし小児の争ひに、親が出てその争ひが度をたかむるに従って国と国とが争ふに至り、果は一界を亡ぼす結果とならんと語りしは是なり。又かばかりの事と油断する勿れとも教へたり。小児の争ひが斯く迄発展すれば、一界を亡ぼす結果となる。是等の事に対してこだま会の人達は唯表面の事に囚はれて、大切なる修行の糧になさんとせず、唯迂闊に聞きのがし居ることは余りに己の肉体にのみ囚はれて、大自然を疎略になし居る故に、泰岳の言葉は重要視されざるなり。されど彼の言葉は尊し。今一つ汝等に教ゆる事あり。慈音には二人の孫あり。其二人が語り居るを聞けば兄は云ふ。「テルテル坊主を作りたりとて雨ふるものはふり、晴るるものは晴るるなり。神ありても何等の価値もなし」と云ふに対して弟曰く「神は心の中にあるなり。故にテルテル坊主も、神の力によって必ず晴れん」と但し兄は八才にして弟は五才なり。是等の言葉をよくよく諸子は咀嚼玩味せよ。小児にして自ら神を知る。神は我の心の中にありと誰も教へざるに、五才の小児が既に神を知り居るにてはあらざるか。兄も神を知るが故に一歩進みたる力をそなへ居るなり。彼等の母は云ふ「このままにて延び行くものならばよけれど、何日かは他に転ずるならん」と愁ひ居れり。人間界はかくも肉体的に囚はれては神を忘れ、神をおろそかにするは是非もなきことなり。よって宗教者たるものは心せざるべからず。
 大自然に順じて事を計るならば世の中は安穏なり、大自然を忘れて変化自然に従ひ居らば泰岳の語りし結果となることは云ふ迄もなからん。国を思ひ界を思ふのあまり一党一派を組織して、却って其が党同志の争ひとなり其が次第に嵩じて、国と国との戦ひを起し果は界を亡ぼすに至る。変化自然に順ずればかくも危ふし。不変化自然に順ずるにあらざれば、世は保ち難きことの理は察せらるるならん。余事にわたりたり。不変化自然を神と思はば神なしとは云ひ難からん。とりもなほさず不変化自然に順ずることを神の家にかへると思ひて其に対して研究の度をたかむれば、変化自然を不変化自然に迄及ぼすことは何等の苦痛を要せず、目的は達せらるるなり。不変化自然を大切にして是に従って歩みを進むれば其処こそ神の家なり。ここに帰りて尚も任務のあることは汝等諸子には察することを得ざるか。よくよく考慮せよ。神によって択ばれ験されて合格せば当選して、再び危ふき変化自然には落選することはあらざるなり。ここに至ってはじめて己の分定まる。故に是を完成門と仮称したるなり。さればセンの門に合格してはじめて居、定まる。故に永久不変の楽みは得らるることと承知せよ。

×

非ログインユーザーとして返信する