覚者慈音883    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  教主寛大講義

覚者慈音883
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
気光素と光気素の関係




                教主寛大 講述
                2019.⒊ 17
                     160番


 さて真の善とは如何なるを善と云ふや。即ち神より造られしものが神の道を歩みて神の処に帰ることを得るものは善にして、神の処に帰る道を踏み迷ひて他に転々して迷ふは悪なり。神にそむけば悪、神に従ふは善なりと知るべし。汝の魂(たましい)霊光に浴するを得ざれば正しき善行をなす事を得ざるは論議の余地なし。されど魂(たましい)は往々霊光を背後にして我欲を正面にす。故に悪業に囚はれて横道にふみ迷ふなり。空源力によりて受くる智慧は大なれども、未だ全からざるにより悟する事を得ざるなり。霊光是に加はりて始めて大悟徹底するを得。汝等は今や四っの明鏡を磨きて此第五の霊鏡の如何あらんと希望に充ちて早く見たしと願ふならん。されば霊光を許すべし。


 然しながら此鏡に対ふに先だち心構への二三を知りをかざるべからず。先づ第一の心構へとして光は因(もと)より光明なりとは汝等にもよく自覚し居るならんも、気は光明なりとの心構へなし居らずば説明についてあやまち聞くこと多し。故に気も亦光明なりとの思ひを蓄へて聴聞するを要す。第二に動と静と云ふについても亦誤解すること多し。汝等肉眼肉耳によりて物の動静を観察するによりて真の動静を明らむるを得ざるなり。汝等両手を以て拍手し其音は動にして音消ゆれば静なりと考ふるならん。されど音消ゆるとも小時空気の動揺あることを考慮せざるべからず。旗動くか、風動くかとは禅家問答にあり。風は動くとも眼に見えず、音によって或は物に触るるに依て知らる。旗動くによって風あるを知る。旗動き風動くに依て汝の心も亦動くと云ふことに思ひ及ばば可なり。第三には心意魂魄と霊の関係を明白に区別する修養を完全になし遂げありやを験めし試みをくことなり。従来汝等は霊を魂(たましい)となし、心意魂魄を統轄して心と思ひ居りて潜在意識とか、或は二重人格とかを霊と思ひ、心意魂魄を心と思ひ居たるによって、人は心魂のみとの考へは脳裡より離れざれば我等が語る処の論説には判断に苦む事多かるべし。依て今明鏡見る以前に是が論理をよくよく理解しをくを要す。
 セイキョウ、テツシンは様々と此理を説きたれど汝等は理解せし如く又理解せざる如く曖昧なる思ひにて講話を聞き居ることを我は知れり。されば此事につきて少しく説明なすべし。一例をあげて説かん。
 此処に一本の川ありとして考へ見るべし。先づ水上(みなかみ)の水を心にたとゆれば、海に到る迄の淡水は魂(こん)にして、海に入りて塩分稍薄き範囲を意と思はば、大海は魄と見なす事を得。然してその淡水及び塩水を監督するものは霊なりと思ひて工夫すべし。水と云ふに変り無し。塩水も淡水も水に相違なし。魂魄心意も亦空ならずや。此理を味はひ見よ。何れも空なるによりて汝等は心意魂魄の区を明らめ得ざるなり。
 第五のの明鏡を見るに先だちその四つの空なるものが頭と腹に在りて異なる働きをなし居る事に思ひ及ばば我のさとせし頭腹一体となせと云ひし事も頷かるべし。此三項目を先づ胸腹に深く蓄へて鏡に対ふべし。次に心得をくべきことは汝等今迄見聞したる鏡と第五明鏡とは全々異なりて唯見れば汝等が眼には茫漠として物の区別明らかならねば、その鑑別は迷ふならん。されどよくをちつきて見聞せば極妙不可思議の働きの力には唯々驚嘆の他なかるべし。汝等は今此有難き霊光に浴する喜びを得たるは何たる幸福ぞ !!
感謝して聴聞見学せよ。

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