覚者慈音882    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  教主寛大講義

覚者慈音882
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
気光素と光気素の関係



                教主寛大 講述
                2019.⒊ 17
                     159番


 又人身を例にとるならば賞を重くするは気光素に合ひ、罰を重くするは光気素に合ふべし。即ち魂心は光気素にして、意魄は気光素に相当するに依てなり。意魄は慈悲を司り、魂心は罪悪をせめる事を司どればなり。汝等に注意する事あり。其は他の事にあらず汝等は稍もすれば魂心と意魄を取り違へて陰陽より誤解を生ずる事は多し。故に魂心は慈悲と思ひ、意魄は罪悪を取りしまると思ふ事多し。因より意魄も罪悪をせむることあり。是は先にも述べたる親の鞭なり。即ち親の鞭は慈悲より出でたる鞭なるに等しく意魄のせめも慈悲のせめなりと知るべし。斯るためしは魂心にも同様なる事も推して知るべし。即ち気光素と光気素は相反する如く思はるれど共に一如の道理ありて、気光素即ち光気素、光気素即ち気光素の関係なればなり。汝等深く此理を翫味してすべて誤ちなからんことを!



                 霊光と空源力



 


 気光素と光気素とが一如となりて、更に是に特殊の力加はりて現出したる時、其働きの微妙にして神妙不可思議の妙智力となる。是に又霊光が加はりて初めて真の神通力に化せらるるなり。霊光とは神の霊光にあらざる事と知るべし。空源力には悪魔の力即ち悪霊の力の加はる事もあるなり。神の霊光は正しく悪魔の霊光は邪なり。神の霊光にも亦陽陰あるは引力圧力の区別あるに依てなり。然れども是は絶対にして汝等が知る陰陽引圧にはあらず。陰に属せず陽に属せずして陰となり、陽となり、又圧力となり、引力ともなるなり。セイキョウが自在論にて説きたる気源体性光源体性と説きたるに対し、空源体性を二分して是を斯く説きたり。即ち気源体性は気光素に属し、光源体性は光気素に属す。されど光源体及び気源体は其働きによりては光気素気光素とは趣き又は意味に於ても異れるなり。即ち空源体性より空源力は生じ、気源体性よりは気光素を光源体性よりは光気素を生ずる故に力と化したると、力を生ずる源との相違なるによりてなり。是を例にて説明せば魂(たましい)を空源体性に魄を気源体性に魂を光源体性に相当すと思ひて考察すれば可なり。更に是を仏教の弥陀を空源体性に考ふれば弥陀の力は空源力となる。故に観音を気源体性と見なさば其力は気光素となり、又勢至菩薩を光源体性と見ば力は光気素に属すと見らるべし。されば霊光とは神より作られたる空源体性なりと知らば霊光と空源体性との関係も自づと理解するを得るならん。立体自然と云ふは即ち空源体性なりと云ふことも併せ知ることを得たるなるべし。


 汝等第五の明鏡を見るに先だち是等の事柄を認識しおかざるべからず。第五の鏡は即ち霊光なれば今迄見聞なせし鏡とは全々異なり居るを以てなり。霊光はすべてに輝く光明にして其光明に浴せざるもの一つとしてあらず。ものの善悪正邪に至っては其区を明白にして邪は正に服せしめ、悪は善に帰せしむる力を有するも霊光の威徳なり。空源力のみにては斯る働きはあらざるなり。

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