覚者慈音785  光明論上巻 巻の一  63番  霊夢とは  テツシン貴尊講義

覚者慈音785
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.20
                  第63番


 迷ふ勿れ。汝等は鏡の前に立てば鏡は直ちに汝の姿を其儘に映じて偽はらず。汝笑へば鏡も亦笑ひ、汝怒れば彼又怒る。人の心の鏡も亦斯くの如し。内面の鏡と外面の鏡の二種ありて、其が同時に映ずると一方づつ映ずるの区別あり。又此鏡の二種と云ふは霊鏡ならずして魂魄の二種なり。是が統一されて一体となれば即ち霊鏡は輝く。此論理は前にも語りし如くなり。夢は魂をさめしむる魄のよび声の如き関係あるにて医学上の論理はここに語るとも、一般には通じ難ければ大衆に理解し易き例を語りしなり。
 心魂は休養しつつある時一定の時間来らば意魄は是をよびさます時、日常ありし事柄が様々の形に組織されて知覚する作用と思はば理解も易かるべし。夢はきはめて短時間に起る現象なる事も知らるるならん。是に反し霊夢は心魂休養中に来る現象にして魂魄一如の時にをこり来るなり。故に霊夢は眠りに入らんとなす時に来り、他の夢はねざめに来る相違なれば是を判別するには寝入りばなに見たるか、或はめざめ際に見たるかの区別にて定むるも一法なるべし。霊感(俗に神夢)は斯るものにあらず。霊に通ずる霊の働きなるに依り、一種の波長の合する時又合せしめたる時、夢に現はるるなれば寝いりばなとかめざめ時の区別はあらざるなり。されば慈音と我等との導き語るは霊と霊との語らひにして是ぞ霊感霊夢となれる現象なりと知らば、汝等も頷く事を得るならん。教主の錯覚と仰せられしはさめて居ながら見る夢を仰せられたるなり。一般に霊感と称へらるるは大抵はさめて居て夢みると同様の現象なればなり。正しき錯覚とは真の霊感によりて現はるるものにて一般人には現はれ難し。

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