覚者慈音781  光明論上巻 巻の一  59番   伊東慈音

覚者慈音781
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.14
                  第59番


教主曰く、


 「己が智慧に誇る者は終生霊光の威徳を知ることを得じ。そは我智慧と霊光を同視しあるに依てなり。信仰厚き者は己の智慧を霊光に帰し、信仰うすき者は霊光を我智慧に帰するなり」


 人は生れる以前より霊光の恩恵に浴して居ながらも心を乱して、追々神の道を踏み迷ひあるに依て、神との隔を遠くなしつつありて何時かかは我心を深くしてすべてを我に帰し居るなり。故に霊光に浴しながら霊光なるを知らずして日々を空しく過しあるは勿体なきことならずや。よく云ふ宝の山に入りながら手を空しくすとはこの事なるべし。宝を見て宝を知らぬは猫に小判の譬喩の如し。道は遠きにあらず。近きにあるを知らざるなり。汝等は智慧に誇れどもその智慧の源は何処より来るかとたしかむる事はあらざるならん。我智慧に囚はれて霊光を知らざれば迷ふは当然なるべし。汝等は本末を顛倒し居る事を悟るならば、却って早く求められん。
 元来智慧を神より受け居りて神を知らず。智慧より神を探ねんとするは本末顛倒なし居る故なり。とかく人は己を主とする弊風は神を忘れがちとなる事を頭におきて、神本位と考慮をふりかへりて、心のをき処を変ゆる工夫こそ肝要なるべし。霊光に浴して霊光をしらず、他をたづぬるによりて本末顛倒すると知りなば、先づ我智慧は我に出でたるにあらずして、霊光より出でたるなれば不善の考へ起り来らばそは悪魔の働きなりと早く覚醒ること大切なり。霊光は善悪を問はず、通ずれば悪に用ゆれば悪魔は喜ぶ。心せざるべからず。悪因には悪果となる理は前巻に記されたり。されば心の持ちかたは霊光を本位として己を後になすことに努力すれば、成功は疑ひなく成就するなりと知るべし。
 教主の仰せられし如く、我智慧に誇る者は霊光より受けたる事柄を己が智慧と思ひて、如何にも明智明案ならずやと己に帰せしめて鼻をうごめかして他に誇るは、是霊光の威徳を知らざるなり。然るに信仰厚き人は己を低くして、常々霊光を尊びあるによりて明智明案は霊光に帰し、誤ちを己に帰せしめあれば霊光は彼に輝きを増さしむ。信仰うすき人は是が霊光より出でたるか、はた又己の智慧より出でたるにあらずやと迷ふなり。是未だ我智慧に囚はれあるによってなり。霊光を蒙りたればとて百発百中とは云ひ難からん。何となれば人界は相対にして、霊光は絶対なれば大局は誤ちなけれど経路には狂ひあらん。例へば人ありて片足を門内に、片足を門外にをきて出入の何れかを訊かば、霊光は其者の心中を知れども答は何れか一方を究むることを得ずして、入らんとせば入り、出でんせば出づべしと云ふ他なかるべし。されどそは正しき答ならざると同様にて、霊光にも斯る様の相違はあるなり。然れども極致には決して狂ひなし。
 そは兎に角霊光に浴したる真の信仰者には斯る些細の事に心を動かすことなく信仰に信仰を重ねて正しきは霊光に帰し、正しからざるは我に帰する底の心構へにて修行を積まば、すべては明となること火を見るよりも明白なり。霊光を受けて霊感に浴せしめて身辺に異状を感ずると誤解する勿れ。己の智慧と思はねばそは霊光ならん。霊光は即ち霊界なるものと感ずるに至らば常住坐臥霊感に浴しつつあるなり。然るに肉体の欲求に迫られて是に囚はれあるに依てその徳を感ずるに至らざるなり。故に霊光を常に重んじて肉体も霊光に委ねる修行を怠らずば足る。

×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。