覚者慈音780  光明論上巻 巻の一  58番   伊東慈音

覚者慈音780
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.12
                  第58番


教主曰く、



「不安を感じ危きを感ずるは未だ霊光に浴せざる故なり」


 母の膝に抱かれて微笑む嬰児には何等の不安も感ぜず。他より抱んと手をさし延べらるることあらば直ちに母の胸を抱く。斯くて嬰児は安らかなり。汝等事に処して不安あり。恐怖あるは未だ霊光の徳に浴さざる故なり。霊光の徳に浴して不安を感ずるは未だ猜疑の清浄せさられざるによりてなり。信仰なきものの猜疑は容易に清浄されず。無知蒙昧なりとも信ずるあらば彼の霊光は彼を守りて過誤なからしめん。智あり、賢なりとも信仰うすき者は己の賢の為に却って身を損はん。信仰を深く重ねて霊光の徳を早く受けたる者は幸福者なり。真の智者なり。賢者なり。霊光は我にも輝きありと説かれてもその顕著なるを見ざるが故に有や無やと審(あやし)むならん。よく云ふ事なるが誰も未だ神を見しもの無し。まこと神あらば我に見せよ。我は信ぜんなど云ふ愚者ある如く己何かの動機に偶然危難をのがれたる等のしるしありてはじめて、神を信ずる等の愚者は多し。是等は真の信仰にあらずして偶然の信仰者なり。不安危きを感ぜざる信仰ならざれば真の光明に浴したりとは云ひ難し。即ち何事をなし居ても有難し、勿体なしと感ずるに至る信仰となりて霊光は益々輝きを増す。そは常住坐臥神と共にある歓喜に満たされ居るによりてなり。生きる喜悦を感ずるならば滅する臨終も亦喜悦に充たされ霊光は眼に見えざれども不安を抱かずことなし。信仰者にありて不安を感ずる間は未だ霊光の恩恵に浴し居らざる事と知るべし。霊光に浴したる者の不安は一時起るも其は不安にあらずして、唯いささか変化する動揺に過ぎざるなり。例へば何心なく立ち居る時、背後より大声に誰かに悪戯されて驚かされし同様なり。油断なるによって受くる影響なれど霊光の度強くなれば不安など毫も生ぜざるなり。汝等はよく気にかかると云ふことを口にするを聞く。其気にかかると云ふも不安より来る現象は多し。物事を充分に明らむれば気にかかると云ふことはあらざるなり。気にかけても如何ともなし難きことを気に病むは、即ち心に不安ある故なり。例へば遠方に離れある身内が如何にやとか云ふ気にかかるならば、神に祈りて無事を願ひ居れば其にて足る。若し必らず災害に遭いたりと霊告あらば、是を信じて駆けつけやるか、かけつくるも不可能との霊告ならば霊に問ひて処置を仰がば気にかけずとも可なるべし。又教主は危きと云へる言葉を用い居られたり。但し不安と危きとの意味は相似て異なるなり。不安は原因薄弱なれど危きは何物か原因ありて来るの相違なり。是等の事柄をすべては神任せ、仏教の弥陀任せになすことを得るならば、決して不安危きを感ずる事なく日々を安らかに送る事を得るなり。自我心強き人は何事も己の智慧にたよる故に不安焦燥にからまれて戦きの日を送るなり。人間の智慧は相対なれば表裏はまぬがれず。霊光に浴して是に委任(まか)せて安心なし居らば、すべては解決の道は開かるべし。とかく人は常に如何にすればよいのかと反問するは霊光に浴せざる人なり。如何にすればよいのかとたづぬるあらば、すべて霊光にまかせて神通力を求めよ。さらば安かるべしと我は答ふるのみ。汝等は汝の親に任す事のなし難き程の重大事件に直面しつつありとは我は思はざるなり。







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