覚者慈音779  光明論上巻 巻の一  57番   伊東慈音

覚者慈音779
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.11
                  第57番


 今汝等は肉体を受けて地球上にありて霊界とは全くかけはなれたる如く感じ居るならんも、よく考へ見る時、地球は即ち霊界に依て保たれある以上肉体も亦霊界に抱かれあるは云ふ迄もなからん。さればこそ汝等の身上に霊光は輝くなり。教主の仰せられしは汝等は生れる以前より霊光に依りて保持され、生れ後も霊光に依て長ずるも滅するも皆霊光ならざるなきを距離なしと云はれたり。終始一貫即ち霊光なれば時間空間距離はあらざる事を申されたるなり。されば始終は霊界に存しあるなり。然るを肉体に囚はれ居て霊界などは遠方にありと考ふるによりて迂闊にも極楽は十万億土などと距離をつけて修行を惑はす罪なり。もとより是には理論あれども衆生は表面のみに囚はれて迷ふなり。「極楽をさとりて見れば遠からず、十万億土たった一足」と説き居るも亦さとりなるべし。或宗教家、多くの信者を前にしてとうとうと講話をなして大衆に感銘を与へて得意然となし居たり。ここに一人の出家来りて大衆の前に現はれ唯一言の言葉も発せず、大衆を見てほろりと一滴の涙したるのみ、合掌して去りたるに大衆は悉く僧のあとを慕ひ行きて宗教家には一人も参ずるものなかりしと云ふ話あり。汝等この理を知り得るや。即ち宗教家の教へは理を説きて一時の感銘にすぎず。僧の涙は千万無量肝に銘じたる現はれなり。我等徳なくして汝等に此言葉の数を多くするも汝等をして真の信仰に入らしむることを得ざるは、霊光の力未だ足らざるなり。我の力は一僧の涙に及ばざること遠きを如何にせん。慚愧に堪えざるなり。霊光は僧の涙の如く何人と雖も浴して感応導交せずと云ふことなし。距離なければ得んとせば直ちに得られ、来れと求めずとも既に来り居るなり。霊光は不去不来なる事は前巻にしるされたる如くなれど、汝等は唯空漠にさとり居りて真に覚りあらざるを、教主は知り給ひて特に肉体も霊界なり。霊光に浴し居る事を説かれたるなり。即ち宇宙のすべてを縮めたるは肉体なり。此事柄については後に詳しく語られ給ふと我は信ずるなり。肉体の霊界より宇宙の霊界に入らずとも既に汝等は入り居るにて是を知らざりしなり。迷ふなかれ、迷へば霊界より魂屑として暗黒の世界に振り落されん。されば汝等は肉体の霊界の規則を守り居らば、神を頼らずとも神は汝等の磨ける魂を喜び迎へ給はん。肉体は霊界なれば外をたづね求むる必要なき事を教へ給ひしなり。故に我身を省みてあやまちなければ外を求めずともさとりは得らるるのみならず、霊光は輝きを増すこと疑ひなし。


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