覚者慈音777  光明論上巻 巻の一  55番   伊東慈音

覚者慈音777
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.10

                  第55番


 この死を厭ひ恐るるは絆のあるによりてなり。高山に登りて仙術を受くるもの其絆を断つ修行せんとて教へを受けて行をなすに、十人に一人の割なりと云ふも他は皆半途にて下山すとあり。死を明らむることは是によりても容易の業にあらざるを知るならん。自殺は簡単になし得らるるなり。されど心の底より死を明らむることは難し。何時にても肉体を離るる明らめあらば行は成就したりと云ひ得らるるなり。絆とは如何なるを云ふかと云へば、肉体と魂魄をつなぐ心意の綱を云ふ。さればその絆を切断して生死の明らめをなすには唯一の法はあるのみ。即ち汝が親なるなる霊をよび起して其光に浴さしむれば、絆は切断されてここに初めて死の悩みより解放せらるるなり。二三才の小児が生死を知らざるも皆霊光に浴して無心なるに依りてなり。然るに長ずるに従ひ魂魄が霊を除々に押し込め行きて心意が気儘の働きをなすによりて動物性となり行くは是非なきことなり。さとれば訳も無き事の如く思はるれど習慣は怖ろしきものにて是を打破するは容易ならず。武士が習慣より稍もすれば割腹を平気にて行ひ、又主命ならば生命を塵芥の如く捨るを得るも、習慣より来る一種の作用にて事実は決して大悟なし居るにあらざるなり。故に教主は此原理を知りて霊界に入らしめなば正しきさとりを得ることを望み給ひて、汝等をして大悟せしめんとの慈悲なれば心して錬磨せんことを!!


 汝等は口にては小我を捨て、大我を得んと称へながら行ひには移すこと能はざるは何故ぞ。事実に直面せざるによりて口に心に其を称へ、是を思ひつつも必要に迫られざるによりてなるべし。盗坊を補へて縄をなふにては手遅れとなると云へる事も万々承知しながら習慣にひかされて一日送りに行を怠るは、凡夫の浅薄なる事と是も承知の上ならずや。さらばなすを厭ふかと思へばさにあらずして講義も聞き我もなしたしと思ひは捨てざるなり。然らざれば宙にさ迷ふ魂魄に等しく終生浮ぶ瀬もあらずと是も心得て何とて何れかに断行に移さざる! 意志薄弱なりと汝自身口にするは何故ぞ。されば此原理を考へ見よ。百中の一にてもなし得る人あらば我も人なり。なしてならずと云ふことあらんやと思ふ心も汝等にあり。然らばなす術を知らざるによるか。然らざるべし。唯心の転換によるなりとは汝等も知るならん。是が如何に苦心するもならざるなり。なしつつありと思へば何時かは知らずもとにかへる情けなさ。歯がかみせども如何ともなし得ぬなり。さればこそ出家なす人、山に世を避けんとなす人あるなり。出家したればとて山に世を避けたればとてなるものはなり、ならざるものはならざるなり。たとえ在家なしてもさとれば成る。汝等の肉体も魂魄もみな神より預けられたるなり。神より預けられたるを擁護なすは使命ならん。何時かは神に返さざるべからず。汝等は預り品を我もの顔に振舞居るに心附かざるか。

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