覚者慈音776  光明論上巻 巻の一  54番  テツシン貴尊講義

覚者慈音776
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.8
                  第54番


 教主、曰く
 「大凡宇宙間に生を受けたるものにして死を厭ふは何故なるかの理をテッシンによりて  聴け! 然して反省せよ。我、退座せん」
   教主立座、 礼拝低頭


 人間は食ふために生き居るか、生きんがために食するか。食せんが為に食ふかと云ふことをよく問題或は話題として聞くこと多し。すべて生きとし生きるもの死を厭ふは敢えて不思議とも考へず。当然として是には論議する者は稀なり。然るに教主は特にこの題を我に与へて初心者の汝等を導かしめんと計られたり。如何なる思慮ありての事なるかを汝等少時考へよ。
 先づ人間を中心として問題を研究すれば、生るれば何れは死す。死する生命は惜しからねど臨終の苦痛を恐るるなりと誰もが返答するなり。
 然らば生死は真に明らめ居りて斯る言葉を口にするかと思へば事実は然らず。とにかく死には何とは知らず恐怖を感じ居るなり。何時迄生きてもさしたる娯みもなければ死して却って安楽ならんとも思へどさて死するを厭ふ。その原理を真に究むれば生くるも死するも問題とはならざるならん。然れば是を大悟するには平素如何なる修行をなさば可ならんかと云ふに、先づ生死に囚はれぬこと、恰も幼児と同様の態度になり居る習慣を養はばよし。その問題については行法に述べたる如く、何時にても喜んで御召に応ぜんと云ふ覚悟ならざるべからず。生れざりし昔と諦めよとか、一度死せば二度とは死せずなどの覚悟は真の明らめにあらず。生きて居る間は生き、死期来らば死す。自殺はなさずとの覚悟もよし。然して二三才の幼児の如く生死を問題にせざる底の覚悟とならば真の明らめは得らるべし。宜しく幼児の態度に留意して是を手本として自らさとるべし。附焼刃の覚悟を人に語る勿れ。嬰児は刃の下をもにこやかに笑顔を見せて平然たり。是怖しと云ふ観念なければ己の生死にも頓着なく唯其場の光景を感ずるに過ぎざるなり。汝等怖るるは威圧か或は生死の拘泥が原因か。恐怖とは何が原因なるかをたしかめ見よ。然らば生死は自づと解さるるならん。壮年時代には決して生死を考へず。されど恐怖はあるなり。その恐怖を恥と云ふ一種の想念よりをこり来ると責任感より来るものあれど、生死の恐怖は壮年期には極めて少し。然れども老年期に入るに従ひて生死より受くる恐怖は多くなり来るは生理上当然なりと、医師は語れど修養あらば決して斯ることはあらずと宗教者の言葉なり。汝等恥辱の恐怖威圧の恐怖責任感の恐怖等に生死の恐怖が加はらば、世の中に生存して生涯を恐怖に終る結果となるにてはあらざるか。其中にも最も怖るるは生死の恐怖ならん。唯生きて居たしとのみの観念か或は生きねば使命は果されざるによりて生きて居たしと思ふか。事実は何と云ふ明答もなく是に論議の余地なく死なぬ限りは生き度しと云ふに過ぎざるならん。さればこの生かされたるによりて死するは怖しとは理に合はざるにてはあらざるか。死を怖るるには何か深きものが身体に潜在しあらざるかについて研究せざるべからず。如何に覚悟をきはめても、さてとなると中々明らめらるるものにあらず。

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