覚者慈音774  光明論上巻 巻の一  52番  テツシン貴尊講義

覚者慈音774
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          空とは如何に
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.7
                  第52番


教主出座、礼拝低頭


「霊界に道を求めんと欲せば先ず空の原理をつみ知りて明白にさとるを要す。然らざれば迷ひ多くして真を得ること難し」


 教主立座せられず。ここに居給ふ。すべては空なりと云へる言葉は汝等に於ても口にし居れども、実際空とは如何なるを云ふかとたださるれば明答し能はざるなり。此空に関しては哲学者或は宗教者に於ても万巻の書籍を編纂喋々論究を進め居れど、更に其妙智を究むる者少なし。わけて仏教者の中には是に関して彼是の論評を下して衆生に知らしむる能はず。唯一部の学者間の問題となりて存在しあるに過ぎざるなり。哲学者又然り。教主は此空と云ふ大事を汝等に覚らしめて後、真の霊界の道を踏ましめんと遊ばされたり。拙なけれとも我、代講の任に当らんとす。汝等も沈着して聴くべし。
 万巻の書籍に眼を通したる人は多けれども読みたる人は少なしと云ふ言葉あり。物の理をさとる事の難きことを云へるならん。さとりを聞きてさとらざれば、さとりたるにあらず。心の底より湧き出でて言行共に一体となりて初めてさとりの境に達す。聞くとは耳に任せをきて己の行為に移さずば無用の時を費せしに過ぎざるなり。汝等は我の講話を聞きて唯聞き流しになすならば其は空し。腹の底に徹する迄聞かんことを我に約せよ。自在論より感応論の終講迄の論旨は即ち空に対する予備知識に過ぎざりし。然るに教主は空の原理を得せしめよと仰せられて立座せざるを見るに徴しても、如何に空の大事なるかを知るならん。空とは如何なるを空と云ふかは汝等は今迄予備知識を習得しあらんも、今後我の語る処はいささか汝等にはむづかしくなるは必然なり。されどなるべく俗言を用いて語らん。
 先づ手近なる例より説かんにここに一杯の茶を満したる茶碗ありとせんか。其茶を飲みほしたらば汝等の考へは茶碗は空になりたり。即ち空(くう)は茶碗なりと思ふならん。さは未だ空(くう)の理を解せざるなり。空(から)となりしは中の茶にして茶碗は空(から)として空(くう)にはあらざるなり。其茶碗が形を変じて初めて空(くう)に帰す。然しもし其茶碗が破損したらば滅したるにて空(くう)に帰したりとは云ひ難し。茶飲み茶碗が他の役目をなして茶飲み茶碗の名を失して仮に湯呑みと変ずれば先づ空(くう)に帰すと云ふも可ならん。空(くう)と空(から)とを混同なす勿れ。空と云へば何も無きを云ふならば其は空(から)にして空(くう)とは云ひ難し。

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