覚者慈音772  光明論上巻 巻の一  51番   伊東慈音


覚者慈音772
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
          神鏡その3
                         
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.6
                  第51番


 教主の申されし如く汝等にも亦他の動物に於ても一切衆生には悉く明鏡の具備あるなり。然れども其を巧みに応用するとせざるとの区別によりて現はれの力働く力に相違あり。映写し来るは一般相等し。例へば太陽は総てを照せどその太陽の輝きを巧みに運用するものの相違にて顕著となるあり。或は有害となるあれど太陽の輝きは同様なるに等し。汝等は修養に修行に依ては輝きは群を超えて増大せらるる事もあるなり。人は無用の事柄を知りて優越感に誇る悪習あり。物を知るは悪きにあらねど知りて何等の処置をも構ずる能はざれば益なくして心乱れて修行の妨げとなる事多ければ、明鏡を濫用することを慎むは賢明なるべし。己が銘鏡の威徳を他に誇るとも唯一言「感心だなあ、偉い人だ」と云はるれば其にて終りとなるのみ。汝等は明鏡を粗略にせず大切に保存して一大事を見のがさぬ映写を計るべし。
 第一霊鏡は映さんと欲せば何物をも映すことを得るなり。例へば他人と対座して其人の思ひを映さんとせば忽ち映り来る。又我を害せんと計るもの家外より狙ふとも鏡は明らかに映し取る。されば此事を知りたれば親なる霊にその処置を任せて泰然自若動ずる事なくんば決して被害を蒙る怖れはあらざるなり。此映写し来る模様をいささか語りをかん。
 汝等よく体験することに今日出行せんと人と約したれど、何か知らず心に染まねば出づるを好まずと思ふ経験したるならん。然して是を押して出づれば何かは知らず障碍あるものなり。是は不明瞭ながら鏡に映じたる知らせにて映り方は此様より初まり次第に錬磨すればその其々の障碍が明瞭となりて今日出行するも先方は不在なりとか、或は道にて列車の故障あらんとかが明瞭となるにて、是は感応作用にして幻影作用にはあらざるなり。汝等が云ふ処の無心の知らせは明鏡の映写なり。又声も聞ゆる事もあり。是も鏡なり。即ち声の鏡なり。明鏡は影のみにあらず。香も映るなり。神経性過敏性の婦人には葬式の焼香の香を遠方に居て感じたりと云ふ例もあるなり。是等は迷信にあらざることも解するを得ん。もとより病症より来る感じは錯覚なれば取るに足らねど、霊鏡は香をも反射せしむるは道理あるなり。是等については教主の教へあるを待つべし。
 汝等は鏡に映ると聞きなば直ちに姿見の鏡を聯想して考ふるにより稍もすれば誤解すること多かるべし。姿見は表面を映す実在鏡にして心の鏡は即ち空間鏡とも云ひつべくその映し方の異なるは云ふ迄も無し。故に己の心を朝夕己の鏡に映して行為の上にあやまち無きかと観察することを得るなり。身を省るとは鏡に映じて後に反省するを云ふなり。例へば夜寝床に入りて今日の行為を如何にと思ふとき、少時空の状態となりて其後脳裏に写り来るは、鏡に行ひが映じ来りしなりと思ひて研究を重ねなば自づと鏡の存在も知られ、又映じ来る事も知るに至らん。斯くして不撓研究を進むべし。 


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