覚者慈音767  光明論上巻 巻の一  46番   伊東慈音

覚者慈音767
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
                        
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.4
                  第46番


 汝等は形あるものは信ずることを得れども無形を信ずるは難かるべし。是は何によるか。即ち智慧の及ばざるによるならん。学者は無形を有形ならしめて大なる発明発見をなさんと努力工夫するにてはあらざるか。汝等昔の人を見よ。空気の中には何もなしとて等閑に附し居たりしもその空気の中より、今は何百種かの実在物を取り出しつつあるを見るならん。是即ち智慧の進化しつつある証拠ならずや。されば汝等は霊界に学ばんとするも智慧の向上発達を計らんがための修養修行ならざるべからず。物の理を究め其真を探り得て迷ひの位置を脱しなば、仏教に云ふ往生も得らるるならん。汝等は常々口にしつつある智者は迷はず迷ふは智者にあらずと云ひ居るにてはあらざるか。宇宙のすべての諸々の事柄に対して其一々の理を究めんことは容易の修養修行の業にてはなし得ることを得ず。尽きざるものに限りある研究の働きに託してもそは不可能の事なり。されど物の理は多くあるにあらず。帰する処は一なり。汝等は生れたる宿を知らざるが故に迷ふなり。帰らんとすれば其在所を知らずば迷ふは当然なり。故に早く其帰るべき故里の所在を明らかになしをきて何時変に遭ふとも周章狼狽せぬよう準備なしをかざるべからず。「極楽は西にもあらず東にも、北にもあらずみんな身に在り」と云ふ道歌もあり。汝等は肉体滅後を極楽として願ふは考へ違ひなり。我、汝等に云ふは汝等を極楽化せよと勧むるにあらず。汝等の出でたる故里を教ゆるなり。己生れし故里さへ知らぬに極楽道知るべき道理なし。先づ故里に帰りてのち修行して極楽にても地獄にても己が欲する処に赴かば可なり。然らば生れし故里とは如何なる場所なるかをたづねんと努力せざるべからず。汝等はその修養なして否修行なりて霊界の門に入るを得たり。是即ち汝等が故里なり。されば霊界の姿を体得して肉体滅後ともなれば直ちに来り帰る用意をなしをかば迷ひはあらざるべし。汝等は娑婆と云ふ駅より発車して霊界と云ふ駅に到着し此処を見学して更に霊界駅より娑婆駅に帰るなり。肉体を失はば急行にて又霊界に帰ると解釈せばさとりも速かるべし。我、是より汝等を導くに先立ち一言しをく事あり。そは他ならず。我の語り導く処の事柄を汝等は宗教的観念にて聞き、見る勿れ。然ることにて聞かば迷ひのみ多くして覚りは却って遅るるなり。                 

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