覚者慈音714  未知日記 第四巻  心霊雑話  伊東慈音

覚者慈音714
未知日記 第四巻      
霊の巻     
      生死と霊の関係  
      その2     
                   ミキヨウ貴尊講述


 一は肉体の長命を願ふと、二は永久の長寿とあればなり。永久に死せざる願ひは、肉体を離れたる霊の安らかならんことを求むるにより正しければ、是に関する理論の余地なけれど、肉体の長からんことを望むについては一言せざるべからず。世の中の人は浮世は仮の宿なれば、如何に長く生きても唯老いぬれば昔の姿更になく、食物とても義歯にまかせては美味ならねば、何等の楽みもなし。眼もうとくなりて足も自由ならねば、物見遊山の楽みも得られじ。斯ることにては生くるも詮なしと云ひつつ、さて実は死を厭ふなるなるは真なり。此事柄より推理すれば死を厭ふにあらずして、浮世に未練の残り居る結果なりとして考究することを得るなり。浮世に未練を残すと云ふは、結局肉体に未練ありとも云ふに基因するは論を要せざるなり。此理より推究すれば人身ありてこそ、人たるなりとの結論に至るならん。故に長寿を願ふ人身の浮世に長くをかれんことを願ふなるべし。然りとせば人の最も楽みと欲するは、心にあらずして肉体の満足にありとの結果となる。何と云ふ浅はかなることならずや。世の為人の為とは口に立派なることをとなへ、その結論が肉体の享楽に帰するとならば呆然たらざるべからず。
 我、(テツシン)貴尊に対して、人間を我等の世界の如くなし給はざるやと伺ひしに唯一言、種子を各所に蒔きあるなりと答へられたり。汝等は我等の世界に来るべき種子なるにあらずや。結実(みのら)ずして茎のみ繁らせて満足するとは不憫の者よと、我は涙なきを得ざるなり。みのらぬ茎はやがて枯れて茶家(さや)一片の煙となりて終らん。
 汝等、米を作らんとして藁を作らば落胆せざるや。神は汝等をして上らしめんとし給ふに、茎ばかりにして結実ずば、神も落胆し給ふとは考へざるや。然ればとて神は唯憐み給ひて、又蒔きかへ給へど落胆なし給はず。苦むは汝等のみなるべし。我の一言を要すと云ひしはここなり。汝等肉体の長寿を願ふは其だけ結実を遅らせ給へと願ふ結果となるによりてなり。早く稔らせ給へと何故に願はざるや。さりとて結実せずして死しては、茎のみにて何の甲斐もなし。故に自殺は神に対して罪悪なることもうなずかるることならん。若き時生死を考へざるは、恰も稲の如くにして未だ藁をも知らざるに等しければなり。年たけて次第に生死を考ふるに至るは、藁と云ふ茎になりたるによりてやがて結実らんことを知るに至りしに依るなり。
 米には早稲米、中稲米、晩稲米のある如く、人にも小児にして生死を考ふるあり。又老年に及びても尚考えざるあるに等し。故に定められたる命数は、結実の早きと遅るるとの相違なり。みのりしもの神に召されて天寿を全うせば、如何なる法力行力と雖も、是を蘇生せしむることあたはざるなり。行力法力によりて蘇生するは未だ結実完全ならざるものなり。されば天寿を全うしたる者との区別を、如何なる法によりて鑑別するか。果してその判別はなし得べきかについては次ぎに説明すべし。


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