覚者慈音712  未知日記 第四巻  心霊雑話  伊東慈音

覚者慈音712
未知日記 第四巻      
霊の巻     
      縁と絆  
      其の1     
                   ミキヨウ貴尊講述


 世の中には縁は異なものと云へる言葉あり。縁は不思議なるものと思はれ居るなり。誠に不思議なるものは縁なるべし。主従となり親子となり夫婦となり、兄弟となり姉妹となり、思ひもかけぬ他人と親兄弟にも語れぬ秘密をも語らひ助けられたり、助けたりの親交となる等々、実に千差万別にして不思議なるは縁なり。又三度、四度妻を変へ、夫に嫁するあり。若くして寡となる男女あるも縁の不思議と云ふべけれ。我、是等について説明して汝等の不審を晴らさん。縁の理論を語るに先だち、先づ絆と云へることを諒し置かざるべからず。
 絆とは文字の如く気の綱なりるその気の綱にて結ばるるは縁なり。されば絆とは如何なるものかと云ふに、即ち光波気波を云ふ。光波とは光の波、気波とは気の波を云ふ。即ち気光素の現はれは絆なりと云ひ得らるべし。十二光十二気が種々組み合はされて流るる波は、宇宙の全土に流れ居ることを考ふれば、自然と絆なるものの共鳴もうなづき知らるるならん。絆は共鳴する処に感応すると云へることも、同時に感ずるに至りたるならん。
 仏教に云ふ親子は一世、夫婦は二世、主従は三世とは即ち親子は一つのつながり、夫婦は魂魄二つのつながり、主従は魂魄霊の三つのつながりを指したるにて、即ち共鳴せる絆の現はれを指せるなり。故に一度感応したらば是を断つは艱難なり。何故ならば十二気十二光の波長が共鳴すれば、此波長を他に変ぜしめざれば制止することあらざればなり。縁は即ち絆の共鳴して接続せるを云ふにて、換言すれば光波気波の共鳴せるを縁と命名くると思ひて可ならんか。所謂縁結びの神と云ふも、実は神の結べるにあらざる事も知られたるならん。根源に逆上って追究すれば神の力なりと云へることも亦然るべけれど、決して神は悪戯をなし給へるにあらずして、事実は共鳴不共鳴によりて様々の悲喜劇を醸すなり。或程度迄因縁は人類の我儘によりて作り出さるるは、心の修養の如何による。されど三気より現はるる因縁は空源力なれば、人力の如何ともなす他はざる運命とあたはざる運命と覚悟せざるべからず。
 父母は息子、息女の嫁、婿をたづね求めて、是こそ天下一の嫁婿(かせい)なりと思ひて結婚させて見れば、何彼と意に合はぬ事のみ多く、果は離婚と云ふ憂目を見るに至ること多し。又夫婦縁厚くして父母との仲悪くして去るもあり。非ならずして生別死別の苦を見るあり。斯ることを列挙すれば枚挙に暇あらず。故に是等のことを総括して理由を語らば、次の結果による。即ち光と気の波長が相互和合したる時、同波長なるか、異波長なるかによって連続か不連続かに他ならず。されば縁と云ふは音楽の如しと思へばよからん。夫婦同音なれば一体なり。夫婦相反するは不協和音の如く、人の魂魄は常に振動なし居るによって呼吸(いき)合すと云ふは、音程が同音となるによりてなり。争ひ相反するは不協和音となる故に、人間の縁はその人々が持つ個性の波長が相通じて、永続融和すると否は融和せざると云ふ現象にして、不思議にはあらざるなり。
 例へば甲の波長が何々の音と仮定せよ。其処に乙が又同じ音となれば同時に接続すれば拡大すれども、他の音とならば通ぜざるが故に、二音は個々に振動して合せざるが如しと知らば、縁は音曲の如くなりと云ふも亦妙ならん。汝等縁を音楽と考へて種々判別し見よ。然らば自然うなづき知ることを得べし。何となれば三気は振動し居るを以て、其々によりて波長は異なれる故なり。又易学者の干支九星の相対相克論も、三気の波長を現はしたるにすぎざるなり。然して是があまりに枝葉に迄広延して迷信を教ゆるに至りしも余儀なき事ならん。
 ここに注意を要する事は音楽に於ける音の楽器と混同せざることなり。楽器は制止せんとすれば制止し得れども、音は制止することなしと考ふべし。即ち何々の音と云へば、是が永久振動を静止し居らざると考えて物事を判断するなり。楽器は止むる事を得るが故に、その者は短かしと云へるを考えなば、判断工夫に迷ひを来す故なり。絆も波長と波長のつながりにて共鳴せば静止せしむるには、是を旧に復さしめざれば、絶えしむあたはざることも知り得たるならん。絆を断つと云ふも波長を停止せしむる意味なり。絆を通はせるは波長を接続せしむることの意味なることも知られたるならん。 


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