覚者慈音695  未知日記 第四巻  心霊雑話  ミキョウ貴尊講義

覚者慈音695
未知日記 
未知日記 第四巻      
心の巻     
            
        人間は屡々再生、生れかわるか

           
                   ミキヨウ貴尊講述


 古来より死後蘇生したる伝説は数多あり。最も衆人の今も印象に残りあるはエス、キリストの蘇生、釈迦の再生等なるべし。中にもキリストは十字架にかかり、蘇生したりと云ふために、此信仰は今も盛んなり。釈迦は再生せんとせば時と場所を択ばず、極楽娑婆を自由自在に往来すると云ふに依って、是等も亦信者は盛んに是を敬慕しつつあり。俗人の中にも死後三日にして蘇生し爾後何十年間も生存したりと云ふ実話も聞けり。一般大衆の中の蘇生には死したりと思ふも、実は完全に死に至らざるもの多くして、是等の蘇生するは当然なり。釈迦キリストの事は肉体をして大衆済度の目標ならしむるにすぎざれば、生かさんとせば生き、死なんとせば死し得べき自在の働きを有する故に、肉体などに意を止め居らず。唯機械の如く思ひ居れば理論の余地なし。是につきては追々述ぶべし。
 汝等が口にする七生報国は是即ち念なり。君を思ひ邦を思ふ一念を、七生も十生も平和ならしむる迄は死せじと云ふ念力を云ふ。然らば七生は得らるるか。汝等は云ふべし。然りと。そは何故ぞと云ふに一念こそ暗示の極妙なればなり。楠公の七生報国心の念は、汝等が胸中に今も残り居るにてはあらざるか。釈迦、キリストの目標の肉体は失はるれど、今も信者の心に残りて生きあるにてはあらざるか。是即ち霊にてはあらざるか。生れかはると云へる説も此理より推して考ふれば会得するならん。斯く語らば汝等は云ふべし。そは彼等が教へにして霊にはあらずと。然らば汝等誰を拝するか。釈迦と云ひキリストと呼ぶにてはあらざるか。若しなきものならば、よびて甲斐なきにてはあらざるか。汝等は即ち霊を拝し居るにてはあらずや。彼等は不去不来の境地にある故に、永久地球の滅する迄は離れざるべし。然して地球は滅するとも、彼等は滅せず。
 ここに汝等に告ぐるに再生再来について、正信と誤信のある事にして、この区分を明白にし、又明らかに諒し居らざれば迷信に陥る憂あるなり。汝等再生再来と云はば、直ちに姿を連想するならん。そは誤にして姿は一代なりと知るべし。日蓮は云ふ。我は釈迦の再来なりと。彼の云へる釈迦とは悉達太子を指したるにあらず。即身即仏は釈迦牟尼仏なりとの意味を現はしたるなり。然るに一般衆生の中には、我は誰彼の再来と根拠なき愚説を称ふるものあり。彼等に然らば汝の祖先はその人なりしかと問ふも然らず、霊媒者が斯く云ひたりと云へる如きは信ずべからず。そは迷信多ければ注意すべき事なり。正しき霊媒者の言葉と雖も斯る愚説を信ずるは迷ひなり。
 ここに又注意を要す事は、霊媒者は予言者巫子などの類が誤りたる説を流布して、世を惑すことなり。元来彼等は空なる事の人の知らざるに乗じて勝手気儘のことを語るは常なり。利己のために無根の事柄を口にして、もし此言葉が適中せざれば罪を神、又は霊に帰するか、或は聞く者の罪に帰せしめて平然たるなり。即ち彼等の神懸りなるものは気光素の作用によるものにて、神の命にあらざることは明白なり。修験者なる者のうちにも通達せざる輩にこの種の多くあるなれば、濫に信をおくことなかれ。

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