覚者慈音692  未知日記 第四巻  心霊雑話  伊東慈音

覚者慈音692
未知日記 
未知日記 第四巻      
心の巻     
        その1      
            
                 ミキヨウ貴尊講述


 我等もし汝等が従来体験し来れる事柄を、基礎標準として天界の有様を偽りて伝道せば、汝等の念はその偽りを信じて、必ずや念によりて其世界を組織するならん。然れども其念尽きたらんには霊は迷はず、魂は迷道をたどる事となるべし。即ち霊は気体性にかへり、魂は光体性に復する故なり。
 汝等が心に印象づけられたる古来よりの習慣性伝導によりて受けたる総べての論説は、深く残存しあるを以て、念より離脱すること難きは、宗教の遺物にて一得一失はまぬがれ難し。火は水に依って消滅し、水は火によって熱せられる。然して滅せられ熱せられたる火水は、今も昔も異なることなく生存しあり。人間に於ても亦然り。昨日見し人今日あらず。然るに古来人魂はたえずして今も尚起伏す。豈(あに)不思議と云はざるを得んや。人魂即ち霊なり。霊は永久不変なる故に、人類は絶えざるを知らば、霊とは如何なるものかはほぼ推知する事を得るならん。
 路傍を行く車は人にひかれて廻転す。人是を引かざれば流転せず。一路廻り進みて意の欲する地点に達すると達 せざるとは、人の引くと引かざるに依る。我、斯る例をなすは何故ぞ。汝等は嘲り笑はん。我等は小児にあらずと云はん。汝等は斯る愚の比喩なりと考ふるならば、我は汝等に訊くべし。空路を廻る地球の引力は、誰によって得らるるか。又汝等が日々の心の輪廻(りんね)は誰によって動転なし居るやと訊かれなば、汝等は速答明答を与え得るや。我の譬喩を卑近なり愚説なりとて侮蔑嘲笑するは、汝等が思慮の薄弱を語るにすぎざるべし。
 人は石炭を用いて発火せしめ、火は水を熱し、熱湯は上気して機械を働かせ、機械は車輪を廻転せしめ鉄路を走る。されど此源は即ち人なり。故に機関車は人によって引かるる結果となる。路傍を行く車に等しきなり。汝等は地球上に於ての小事を左右する任務は誰より授けられしやを思ふ時、頭に閃めき来るは神と云ふことなるべし。学者は自然の現象と称すれども、追究に追究を重ねなば、結局は神業と答ふる他なかるべきなり。所謂神霊なりとの結論に達せん。されど神とは形なき霊にして無限の力を有すとの結果を得べし。若し此無限大のはたらきを以てせば、神は一切に同化するを以て意のままの姿を現出することの容易なる事をも知らるるならん。
 すべて人間は形を標準として物事を観察する風習ある故に、思慮分別も形、即ち即ち実在に囚はるるなり。兎に角有物本位なるによりて、無形の道理には無関心なれば、従って科学の力の進達も遅鈍となるなり。有機科学よりも無機科学に重点をおかざるべからず。
 其は別としてここに考慮すべき事は、霊に対する二種の観察なり。一は形に現はれたる霊、二は形に現はれざる霊なり。即ち形に現はるる霊とは動物等に宿れるを云ひ、形なき霊とは大空を指す。即ち光体性と気体性の如し。換言すれば小霊と大霊とも命名すべきか。無の大霊より有の小霊に導入せらるると諒せば可なり。大霊の作用より小霊を作る。是が送入されて動物の霊心となりて働くと知るべし。故に霊は霊に通ふ。即ち小霊は大霊に通ずるなり。此理より推究する時、即ち霊は霊に帰すと云ふ結論に達す。恰も水樽の水を大河にかへすに異ならず。是四線の法則なり。
 然して又霊中にも光体性気体性不動気動気の各種に区別さるる事を得れども、不動気は動気を作る源なれば不動も動となり、同時に動は不動にかへれど、力の作用は絶ゆる事あらじ。故に宇宙は即ち絶対不変なる事を知りたるならん。汝等は自在論行法又は念力集に於て、ほぼその大要を知り得たるならん。然れども霊の話を説くにあたりて先づ是等の予備知識を具備(そなえ)おかざれば、今後我等が語る処は伝説道話の類と同視する憂ひあるを以て是を語りたるなり。



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