覚者慈音686  未知日記 第三巻  念力集    伊東慈音

覚者慈音686
未知日記 
未知日記 第三巻      
安楽の巻     
        その2      
            
                 テッシン貴尊講述


 然らば如何に修行をなすべきかと迷ふならん。迷ひは娯みにあらず。迷ひは汝自身なり。故に自分を捨つべし。即ち棄我なり。自分を中心となさば永久の安楽は望まれ難きなり。汝等は常に無我と云ふ言葉を口にして、真の無我の意味を知らざるが故に苦むなり。
無我にならんとして静座するも邪念に囚はれて、無我の境に入るあたはずなどと云ひ居るにてはあらざるか。無我とは斯ることを云ふにあらず。汝等が思ふ無我は心の抑圧にすぎざるなり。無我とは棄我なり。己を捨てる事を指すなり。己を棄ると云ふは即ち他を自にする事を云ふにて自他一如を云ふなり。換言すれば宇宙を我なりと云へることなり。静座工夫せずとも此理は解さるべし。
総ては我物なり。宇宙の全部は他のものにあらずとの信念を昂むることを無我の行と云ふ。故に自もなく他もなき境涯、即ち小我をすてて大我を得ると云ふは是なり。即ち我を棄つればすべては我となる。此修行をなせば真の安楽は得らるるなり。
 先づ自を他とし、他を自に化する法を云ふ。汝等我愛児のためならば、己食せずとも与ふるなるべし。己寒くとも愛児には寒からしめざるべし。そは何故なるかと云ふ迄もなく、児は我ものと思ふによりてならん。さらば此思ひを広く拡大して、念の力を養はば他も自のものとなるに至らん。修行の道と方法はここに存するを知りたるなるべし。ここに於て無我の真意は解するを得ん。我を捨て、我を求むる念の用法によって、全く行は修めらるることを悟るべし。是には静座工夫も一法ならん。又行中に修得することもあるならん。兎角油断なく行はざれば真を得るは難し。念を此処に置くべし。苦むべからず。総ては我ものとなし得る修行こそ、円海、ミキョウの説ける砂洗布通の法となるなり。

 我貧なりとも我児は富者なりと思へば、自らの貧は却って娯し。我の宝を子孫に与へしと思はば又楽し。真に心の底より斯く思ふ念を養はざるべからず。然らば上清下濁となりて泥土沈滞す。外弱内強の修行はなして甲斐なし。汝等は是を楽みとして泥土を清除し、以て真の安楽を得んことに精進すべし。喜悦の念力は安楽の正因なることを知るに至らん。

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