覚者慈音682  未知日記 第三巻  念力集    伊東慈音

覚者慈音682
未知日記 
未知日記 第三巻      
喜悦の巻     
        その4      
        喜心録
        唯論議  無問答
                 ミキョウ貴尊講述


 然らば水とは何なるかは、汝等も既に覚りしならん。神の恵み給へる智慧にして汲めども汲めども尽きざるなり。悪念の泥水を清めて、善念の清水を求むる時此処に喜悦の念と入れかはる。喜悦の念を強くすれば従って、悪念は払ひぬぐひ去るるなり。修行者が入山にあたり、先づこの身心両道の滴水の教へに従いて、学と実行の道につくなり。されど汝等一般の人は斯る特殊の行をれば、狂気の沙汰と見るは必然なり。然して斯る行は何人もなし得るものにあらず。よしんばなさんとしてもみだりに許さるる事を得ざるは勿論なり。又斯る行を行はずとも己自らに与へられたる天職を固く守りて其業を怠らず。我等が先に示めしたる四線の法則を厳守せば、行者と同じく高くせらるるを我等は誓ふなり。修行は言葉にて語らば難しく考ふれども、事実屈せず撓(たわ)まず行はば易き事なり。唯考えにふけり居りては達成を見ることを得ざるは云ふ迄もなし。汝等他より謗りを受くる時、腹立ちて謗りし者を謗らば、その結果如何になるや。互に謗り謗られて、果は多くの人に迄及ばば己の恥辱と愚かさを広く中外に知らしはむる他何の益もなかるべし。斯る愚を行はんより、先づ最初謗りを受けたる時、我の行い事実ならば是を改むると共に、その謗りは神の教へと思ひて彼に謝すべし。若し我に故なきならば、黙して我に斯ることを以後犯さざらしめんための注意と思ひて、彼を罵る事なき底の修行をなすなり。斯ること易きに似て難し。然れども一時の忍耐は、最悪を防ぐことに思ひ及ばば決して苦痛とはならざるべし。是等は一例なれども行法は数々なり。凡てをこの例にならひて行ふべし。
 兎に角我心に思ひ余らば、汝が親に訊くべきはもとより、思ひ余らざるも一度は親に訊きて教えを受けて何事も決すべきなり。もとより忍耐するは行中の行にして極めて重し。是を安行楽行として行ふ修養ならば行法通達せりと云ふも過言ならず。平然として行ひ得る修行こそ望ましけれ。喜悦の念を生ぜしめるの根本は、忍耐するに依って生ずべければなり。いやしくも人道を歩まんとする者は、第一忍耐力を養ひて争闘の過失を惹起することを避くべきなり。

 地球は忍耐する力すくなき人種と、物欲力に富める人種との集りなれば、争闘は永久に絶えざるなり。平和を口にして実行には争闘を以てす。豈(あに)悲しからずや。是について汝等に日本の八紘一宇の理論を講じて教ゆべき事あれど、そは他日に譲るべし。枝葉にに渉りたり。本論に返らん。
 滴水の教へに見る如く、清流の水と瓶中の水は、もと是兄弟、水を愛する心より考ふれば敢て区別する処なかるべきに、瓶中の水は大切にあつかひ清流に対する念のうすきは何故ぞ。円海翁の講話の中に示めしたれど、我は念ついての上に対して必要上いささか述ぶる処あり。
 人の心は小さきものに眼を注ぎ耳をそばだつる癖あり。他より些細の親切を受けて終生忘れじとの念を起す。即ち清流の恩よりも瓶水の恵みを尊しと考ふるに依りてなり。瓶中の水尽きなば、軈ては清流に依らざるべからず。我の語らんとする処はここにあり。
 汝等の念は瓶中の念にして大海の念にあらず。行ずる於ても亦然るなり。悪念は瓶中の水の如く一時にて捨て、善念は清流の如く永久不変ならざるべからず。熱し易く醒め易きは人心なり。工夫する事に依って怒りも悲みも喜びの念となし得るなり。喜悦の念を清流の大河の如く、永久不変ならしむる行をせよ。然らば行苦もうすく軽くならん。
 念の用法によりて明らめは得らるるは周知の事実なり。一生を喜びにすごす人こそ真の幸福ならずや。よしなき事をくよくよ悲みて身心共に傷むる人は不孝なりと思ふならん。空腹に食を得て卓につく如く、労苦も行も喜びて行ふ習慣をつけよ。然れども不善の行はよく考えて、親に訊きて是を避くべし。喜悦の念は安楽を求むる種子にして、よく育て、結果を全うすべし。



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