覚者慈音681  未知日記 第三巻  念力集    伊東慈音

覚者慈音681
未知日記 
未知日記 第三巻      
喜悦の巻     
        その4      
        喜心録
        唯論議  無問答
                 ミキョウ貴尊講述
                 



 此処に最も留意すべきことは、瓶の濁水が静かなれば、泥土は沈滞して表面は清となるについてなり。人常に安ければ風波起らず、平和なり。然れども一家に波風たたば人心は混濁することの教へなり。又表面の信仰は表面の水に等しければ掻廻によりて乱さるることも示めされたるなり。静座し禅を行ふも一時泥土を沈めたるにすぎず。故に是を永久不変ならしむるには砂濾漉(すなこし)、布濾漉(ぬのこし)を行ひて清めよと云ふ教へなることも知られたり。静座し禅するは自己の過失を反省するに用ゆれば可なり。静座は心を濁らせたる泥土を沈殿せしむる方法にすぎず。唯抑圧せられてわづかの間、沈滞し居れど、少しく掻き乱さるれば混濁す。故に根本をなせる泥土を除去せざれば、永久の混濁はまぬがれざるべし。是を清除するは即ち砂洗布通を行はざるべからず。
 砂洗布通とは如何にせば行ひ得られるかと云ふ結論なり。水なれば砂濾漉、布濾漉は行ひ得れど、人心には如何にせば可ならんかとの質問に対して汝等は如何に答ふるや。汝等は行法に於て貴尊(テッシン貴尊)よりすべて教へを受けたるならん。即ち零点零の点を外して零と零を一如ならしめよと教へられしにあらずや。所謂点は泥土なり。零と零は清水なることに意を廻らすべし。
 すべて事に処して動ぜざる底の信念を強くする修行をなすにも安行楽行と云ふ精神を養はざるべからず。是を難行苦行と考ふるが故に、自然尻込みするに至るは明らかなる事実にして、進んで事にあたらんと云ふ念の乏しくなりゆくは当然なり。されば意を強くして勇気を起して事にあたることに努力すべし。
 先んずれば人を制し、遅るれば制せらるるの比喩あればなり。面白しと思へば楽なり。同じ行をするならば、面白しと考えて行はば宜からん。荷物を肩に旅すれば道中は娯しきものなり。機械に運ばるるものは、早くともその娯しみを知らざるべし。水滴の行に於ても達成を見たる喜びは、水樽によりて汲み入れたるの比にあらざること云ふ迄もなし。所謂一滴又一滴と辛苦の報い、満水にあたって酬いられたればなり。近き所の神よりも遠方の神が有難しとの俗言は即ち是ならん。
 汝等行ずる道中の長き楽みを味ふと心得れば、楽行となりて成就の暁の楽みも又格別なるべし。我等が説く処の速かに達成せよと云ふは、汝等が思ふ速とは慌はてて進むと思ふならん。我等が説く速は、断間なく油断せず、真剣に行へとの謂なり。慌はてて行ふ速は、疲れて倒るる憂ひある故に速ならざるなり。教ゆる者と学ぶ者との隔大きければ、学ぶ者は、稍々もすれば真意を誤解して却って業の達成を妨ぐれば、学ぶ者は唯々師を信頼して何事も考ふることなく、命のままに応ずれば成就の道開らかるる事を悟るべし。空しき考へは、即ち行の妨げとなる。心せざるべからず。安行を布洗と考へて行はば可ならんか。恰も小児の砂遊び水遊びと同様に思はば安行楽行となるべし。難行苦行と思ひて行はば、嫉妬恨みの念起りて泥土塵埃益々加はるのみなり。安行楽行として行はば喜悦の念とならん。瓶中の泥土塵埃を除り去らば、其量は減じて水量も従って減じ、瓶中の空間は増す故に、一方の瓶より清水を受けて又砂洗布通を行ひ、屡々繰り返せば濁水は清くせられん。斯くせば清瓶はとぼしくなると考ふるならん。然り乏しくなるは当然なり。然れども神は是をのがし給はず、足らざるを汲み入れし給ふと知るべし。


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