覚者慈音679  未知日記 第三巻  念力集    伊東慈音

覚者慈音679
未知日記 
未知日記 第三巻      
喜悦の巻     
        その2      
        喜心録
        唯論議  無問答
                 ミキョウ貴尊講述
                 テッシン貴尊講述
                 円海大師講述

水滴の行(円海大師の修行時代)



 我、初めて許されて師の門に入りし時、第一に命ぜられしことは、二個の水瓶に清濁の二水を湛えよとて汲具を賜ふ。是を見ればあに計らんや、そは竹籠なりし。我、唖然として躊躇ふ。師の坊曰く、「汝思ひ廻らすともあたはじ、疾く実行せよ」と我、悄然として水滴を注げど瓶底をうるほすに足らず。暫くありて師来たりて我を鞭打つ。斯くすること数回。我憶えらく、師の酷なること鬼畜に勝る。寧ろこの門を去りて他に道を求めんかと。
又汲むこと久しくして水瓶を見れば水瓶に半ばなりき。斯くて、我、心中に奮激の気漲る。然り、不可能と云ふ事のあるべけんやと、ここに至って勇気勃然として我を励ます。
梢々久しうして水は満ちたり。濁水は瓶底に泥土留積して満水を容易ならしむ。師曰く、「汝、如何なる信念にて吸水したるや」と
我、答えて曰く、「難行苦行なりし」と
師、又我を鞭打つ。然して我に叱咤して曰く、
「汝、何故に安行楽行と心得て行なはざりしぞ。誰が為に行をなすや。汝自身の為に修するにてはあらざるか。然るに他よりの頼意の如く、推知するを以て人肉の苦を恐れ、又吸水に用ゆるに竹籠を用ゆる等、師も亦酷なりと我を恨視したるならん。故に難行苦行と思ふは、汝未だ修行の大事を覚知する力なければなり。我が為の用を便ぜしめんとならば、水樽を用いてその達成を速やかならしむるは必然にして、斯かる愚を敢へてなさしむることあらんや。即ち水の滴は微なりと雖も、よく大海に満つとの教訓を実行に学ばせたり。是を水滴の行法と称す。視よ、善行の清水は努力と時の浪費おおく、悪行の濁水はその半ばにて成れり。即ち善行は行ひ難く、悪行は易し。清水は物を清らかし、濁水は物を汚損す。誰か 渇を癒すに悪水を用いんや。食器を清むるに誰か濁水を用ゆるものあらんや。濁水を蓄へし瓶を視よ。泥土沈滞 して水面は清らかなり。悪人は外善内悪の理も悟り知らるるならん。濁水に清水を加ふるも判明せず、清水に濁水を加わふれば忽ち明々す。是に依って見るも、悪は表れ易くして、善は表れ難きを知りたるならん。又此の清水に泥土を投ずるものあらば、汝は心よからず感ずれども、敢へて咎めざるべし。然れどもこの清水の水瓶に石を投ぜんか、汝は彼を咎むるならん。瓶の水と水流は是もと兄弟、何故に区別するかを考へ見よ。即ち労して漸く達成せる喜びの妨げを怒りてなるべし。然らば暴風土砂を巻きて混入したらんには、汝は誰を恨み誰を訓戒むるや。帰する処は我欲我情の自己心より出でたるに他ならず。
我汝に命ずるに清濁の水を二瓶に充たさしめたる理由もここにあり。濁水を充たしめて何の益かあらん。即ち人肉は濁して、魂心は清なることを知らしめんが為の教訓なるに心づかざるか。視よ。今は水瓶に波たたねば泥土は沈滞して表面は清し。これを掻廻せば忽ち混濁す。人心も又然り。事に処すれば。忽ち平静を欠くこと水瓶の様に異ならず。泥水は砂をくぐらせ、布を通してやや清水に近からしむを得ん。されど人心はいかにして砂洗布通の法を行ふべきかを工夫せざるべからず。滴水の法を行ふにあたり、難行苦行と心得るが故に、道を覚るを得ざるなり。それ、若し安行楽行と心得て行ひ得ば、自ら清水の徳を重んじ、濁水の憐憫を感ずるに至らん。徳を重んずるは敬慕にして、憐憫を感ずるは慈悲心なり。我、慈悲心をもって汝等を愛撫し、汝は我が徳を敬慕して修行を怠らずば嬉々として進み、行の達成を速やかならしむるに至らん。汝、我を酷なりと思ふが故に我を恨む。是煩悩より生ずる肉心の致すところ、速やかに怨恨の念を払はざれば、本願成就遠かるべし。怨恨の念を払はば、我の鞭は慈悲となる。教ゆる者と学ぶ者との心に斯かる隔たりあることを覚れよと、懇篤に諄々と説かれたるに、我迷夢より醒め、本然として暁の太陽を見る心地して、思はず合掌して師を拝せば、師は眼に涙を浮かべ給ふ。我思はず低頭すれば、師、莞爾と笑みて、会得せしか、合点せしかと幼児に接する慈母の如く、我が頭上に手を置き給へり。
慈音さん、儂は今も尚、師の面影が残って忘れることは出来ません。あのときの師の慈愛に満ちた眼光、温情あふるる愛撫の手、有り難い、忝ないとか云ふ言葉では云ひたりない。何と表現してよいやら筆舌の及ぶべくもありません。これを忘れぬように為ようと思ひまして喜心録と題して、一巻の書にして大切に保存して居りますが、その中の水滴の法のあらましを、貴下の修行の参考に供した訳です。喜心録とは如何書くかと云ふのですか。喜心録となあ。是は儂の考えへでは神に帰るの意味の帰神、又身を棄てる意味の棄身の三徳に通ぜしめる意味でこんな題名を用いました。(身を棄て神に帰る喜びの心)
今は是でお別れしましょう。真剣におやりなされや。先に楽しみが待つていますぞ。何事も安行楽行ですぞ。そして砂洗布通を忘れなさんなよ。では、さようなら。

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