覚者慈音665  未知日記 第三巻  念力集  鳥獣にも怨みの念あり  ミキョウ貴尊講義  伊東慈音

覚者慈音665
未知日記 
未知日記 第三巻      
念力集     
        その1      暗の巻
       鳥獣にも怨みの念あり


                      ミキョウ貴尊講述
                 テッシン貴尊講述
                 円海大師講述


 世の中に生をうけて誰か死を好むものあらんや。たとい禽獣虫魚なりとも他よりの害をのがれんとして、逃げ惑ふにはあらざるか。是によりて見るも生死の厭ひ、生死の執着あるは明白なり。世の中の人は虫獣類を心無きものの如く考ふるは悪し。世の中の凡ての事を仔細に深くほり下げて観察したれば、帰する処は生死の執着に帰す。食いても食はずとも死す。然れども食はざれば身を支ふるあたはずと云うも、結論は生死と云ふに帰するが如く、何事も生死の苦より出づる現象なり。
 さる所に一人の寡婦住みけるが、この者殊の他動物を愛し、虫に至る迄愛するが故に、鳥獣そのものも馴れ慕ひてありけるが、或日彼女外より帰り夕餉の支度をなし居たりしに、一匹の猿、身に深傷を負ひて馳せ来り、彼女の袖に縋りて援助を求む。彼女その傷を見れば鉄砲傷なり。薬をつけて種々手当したれど甲斐なく死したり。
かの猿臨終に何か指にてしきりに表を指し示して、眼に涙を浮べつつ死せるに不審を抱きて、猿の指せる方角をたづね行きけるに、一人の狩人小猿を携げたるを見て、彼女は是を申しうけて帰り、かの死せる猿の傍に置きしに、死せる猿忽ち起き上がりて小猿を抱き、さも嬉しげにキキと一声なきて寡婦に感謝するが如く手を合せ伏し拝みて死せり。
此の様子を表にありて眺め居たる狩人も涙を催して、其後殺生を止めたりと。然るに寡婦は小猿を我児の如く飼ひ居たるに、死したる親猿夜な夜な小猿に乳を与えに来りたりと云ふ。これ一例なり。
動物わけて獣類の子に対する愛情、愛情念は人間よりも殊更深く、且つその仇に対する観念も亦強くして、彼等は人間に対しても復讐の念は決して諦むるものにあらず。人間の気光素の低下したる隙に乗じて復讐を試み、成る迄続くるものなり。故に是を制するは人間の執念に比べて容易の行力にては除去し難し。何となれば人間は道を知れども動物は道を知らざる故なり。唯是を払ふには空源力に依って、気光素の力を得て追ひ払ふより術なし。如何に理をさとすとも通ぜざればなり。
さりながら人間は動物を殺して自ら錯覚を起すことは、前にも述べたるなるが、彼等の人にたたるは決して幽霊を現はすにあらず。無の力か、或は己の仲間の力を借りて復讐するなり。狸の大入道に化けたりと等云ふは、光子の事にて地上に生ずる陰電気を云ふなり。
ものを云ひたりとか云ふは錯覚に他ならざるなり。
世に云ふ執念の蛇と云へる如きは、事実と錯覚の二種あり。蛇は引力性強き虫にて、物を引き入るる力を持つ。すべて引力性を有する動物はみな同じ。錯覚に依る執念は暗示に依って払ふことを得れども、然らざるものに於ては気光素を作るか、さもなくば此霊を慰めやる方法に依らざるべからず。
慰めやるには彼の霊を祀りて種々の供物を手向けやる事も、一つには暗示となり慰霊となりて、彼はたちどころに去りて害をなすことはなかるべし。加持祈祷にては取り去ることあたはざるは、前に述べし事柄の理によるも明白なり。

×

非ログインユーザーとして返信する