覚者慈音664  未知日記 第三巻  念力集  妄念と執念の災禍  ミキョウ貴尊講義

覚者慈音664
未知日記 
未知日記 第三巻      
念力集     
        その1      暗の巻
       妄念と執念の災禍


                 ミキョウ貴尊講述
                 テッシン貴尊講述
                 円海大師講述


 雑念多くして心身を害したる結果により現はれ来るものは妄執なり。己のにぶきにつけて、他より受くる影響のために起り来る事の多くは恨みとなり、嫉妬となり、果は妄念執念を引き起すこととなるもの往々なり。妄執の念は滅後と雖も残ることあり。
 幽霊と称するは妄執の念の残りたるものにして、是は霊にあらざるなり。是は幽霊にあらず。幽念なり。所謂水蒸気の如くにして、上昇しては雨となり、地に落ちては水蒸気となりて空間を上下するに等しきものなり。されば此念を晴すことは容易の業ににはあらじ。残さぬことに心掛けざれば永遠の苦みは免れざるべし。
 妄執を以て死後に於ても恨みを晴さんと考へて復讐の念に燃るとも、死後の苦痛は肉体を持てる時よりも尚その苦みは甚だしきことを知らざるべからず。其苦を考えずして怨むは宜しからず。肉体の苦痛には薬石あり。宙に迷へる者の苦痛は何を以てか救ふことを得ん。されば妄念執念を残してたとひ思ひのままに怨恨を晴らすとも、其に依って消滅することなく、宙に迷いて苦みは長かるべきことを思いなば、呪いの念は慎むべし。よしや怨みを晴したりとも自他共に苦み、我と彼と又々宙に争闘を繰り返すことは果なく続きて、霊も共に浮ぶことを得ず。故に妄執の念は悪魔となり、悪魔は喜びて是に炎を送りて益々其度を加ふるの結果を招来し、勝敗共に悔を残すのみ。
 娑婆に在りて僅かの怨恨が滅後に至りて、斯る苦悶に悩まさるる事を知らずして、唯仇をとらでは止まぬ妄執の念こそ怖しけれ。報は深くして罪は重し。神の道に合はざる故に悪魔は喜悦ぶ。悪鬼羅刹の友となりて何かせん。人は天界の楽しきこと見よや。天界の安らけき様を!  迷ひもなく恨みもなく苦もなければ安楽なり。浮世の恨みは事もなし。早く明らめて神の道につき、親の懐中に抱かれて平安に天界に眠らんことを願ふべきなり。
 俗に気にかかると云ふ事、然して気にかかることが解決し終る迄は、何となく腹に沈着を感ぜず、唯不安に導き誘はれて神経苛つことあり。是等には注意せざるべからず。斯くの如きことの度重なるに従ひて、神経の病苦は来り犯す。斯る事を取らんがために胆力を練るなり。気海丹田に気力を充たして静座するなり。腹をこしらへるとは是を云ふ。腹の座った人は物事を苦に病むと云ふことなし。苦に病むと云ふも鍛錬せぬ故に、小胆なる結果乗せらるるものなれば、練り鍛えて腹をつくることも、先づ胆力を増大ならしめて些細のことに神経を尖らすことなきよう注意すべし。然らざれば妄念執念は襲い来る憂いあるを以て、力めて行ふべし。気にかかることは速に解決を計り、成らざれば腹に力を入れて気を圧しつぶすべし。平素是を行はば自然気にかかることも少なくなるなり。物事を明らむには反射力を応用して反対にとる方法もあるなり。
 例へば苦を楽に考へ見ること、又禍を幸福に見ること等の例なり。彼の兇禍は面白しとか、この苦は娯しとか考えて、すべてを喜悦に変へる法もあり。然して苦むことの多ければ多き程、信仰の念を深めて、妄念執念の心をとり去り禍よりのがるることを計るべし。然らざれば妄執念の禍は永久に逃るるあたはざるなり。是はもとより妄執念の起りたる時のことを云ふなるが、要は妄執念の起る原因を作らざるよう心がくべきは論をまたざるなり。又他より恨みを受くる種子を蒔かぬよぅ心がくべきは勿論のことなり。

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