覚者慈音662  未知日記 第三巻  念力集    伊東慈音

覚者慈音662
未知日記 
未知日記 第三巻      
念力集     
        その1      暗の巻
       疑念と信念



                 ミキョウ貴尊講述
                 テッシン貴尊講述
                 円海大師講述


 汝等は信念とは正しき念を指し、疑念とは不正の念を指すと考ふるならん。其は誤なり。不正にも信あり。正にも信あるなり。又疑念にも同様のことありと知るべし。即ち善悪共に信疑の念を有し、迷信に於ても念強ければ成立す。水もて霊薬なりと信ぜしむれば、念より起る気光素の作用にて、不可思議の効果を現はす。又霊薬も水なりと信ずれば効果なし。念は斯くも不思議なるものにして又用法に於てもあやまてば利害共に甚大なり。疑念強きもの信念に強きかと云ふに然らずして、信念を得ることは容易にあらざるなり。何故かと云ふに彼は疑念を信ずるを以て、念は平素強く働き居て信念を遠ざけ居ればなり。信念の影に疑念あり。疑念のかげには信念あるによって、信念と疑念は表裏一体の関係あれば、念は何れに依るとも気光素の働きは変ることなし。
 然らば何によりて疑念は信念に乏しきかと云ふにつきて考え見るべし。是には二種の区別あり。一は智慧うすきもの、一は無智にして理解しあたはざるものなり。智慧うすき人は、唯己の自我心に捕はれて疑念を強くす。例えば不虞者の猜疑心など云ふも是等に属するなり。又己他を悪しきと考ふる時、他の善行を却って悪行と見るなどみな智慧浅き故なり。
 慈音よ、汝の信仰うすきは眼に囚はれ居る故なり。汝の心の底には盲者の猜疑残りあるを我は知れり。速かに是を棄てよ。汝は捨て居ると思ふはあやまりなり。よく考えて早く棄つべし。
 慈音よ、汝、何と云ふことを我に訊くか。如何にせば棄てらるるかと訊くか。今汝は棄執着の行をなし居るにはあらざるか。我、汝に尋ぬべし。汝は如何にして肉眼を棄てしや。病なればせん術なしと云ふか。然らば眼に囚はるる病なればせんなしと思え! 眼なくして眼を思ふとも何の甲斐もなし。眼の代用を他に移して眼を忘れよ。然らば棄らるるものならずや。工夫せよ。努力せよ。然らざれば棄執着の行は容易になし遂げることあたはざるべし。執着も念なり。此念を取り去るべき気光素を作る工夫を考慮して行法の進行を速ならしめよ。肉眼を捨てし頃の苦痛を思はば眼に囚はるるを棄つるに何の苦痛を伴ふべき!
努力せよ。努力せよ。
 無智の疑念は浅く、智慧うすき者の疑念は深し。又疑念は邪念を伴い、邪念は執念或は怨念を誘導する憂いあり。慎まざるべからず。是に反し信念は喜気を生じ、疑念は怒気を生ずる憂いあり。故に智慧うすき者は常に疑心を貯へて信の妨げをなすを以て、心平ならず、空想に囚はれがちとなり身体も強健ならざるべし。又念を貯へてやり場に窮すれば、気光素は働くを得ずして、一念凝っては病を招く。是等の事は小説に見る恋病いの例を見ても明白なり。
 愚者も信念強き物り。彼等は素直なるが故なり。無智なる者の疑念するとは己の智慧薄弱なるに依って、唯何事も弁ゆるあたはざるを以て、信も薄ければ疑いもうすき故、念はうすし。人は素直になり度きものなり。云ふことは言葉にして如何にとも筆舌の自由に任すことを得れども、行いは事実を以てせざれば現はるるものにあらず。為して成らざる事を説きてせんなし。故に仏教に於て諦めを説きて行はしむるなり。止むなく諦むるは未練を残す。正しく心の底より明らめて更に未練執着の根本をぬき去る方法なかるべからず。然らば果して斯る法のありやと云ふに、我はありと断言するなり。
 此法は先づ心のいらだたしさを取るために静座すべし。然して次の言葉、即ち、我心騒乱迷苦甚深、願以神通力是清浄の十六文字なり。
 我心とは我が心、騒乱はさわぎ乱れ。迷苦甚深とは迷ひ苦み甚だ深し。願以神通力とは、願はくば神の通力を以て、是清浄とは、是を清浄ならしめ給へと云ふなり。即ち我の心を神の御力にて清くし給へよと念ずるなり。
 然る時は気光素(霊光)は働きを始むるにて、此働きが増大するに従ひて自づと消滅はなし得らるべきなり。灸になさんとせば、却って反射力に妨げられて苦を増す結果を招来す。

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