覚者慈音661  未知日記 第三巻  念力集    伊東慈音

覚者慈音661
未知日記 
未知日記 第三巻      
念力集     
        その1      暗の巻
       念力と気光素との関係


                 ミキョウ貴尊講述
                 テッシン貴尊講述
                 円海大師講述


 婦人の間にたまたま行はるる、「丑の時まゐり」と称し、深夜神社の社に到り、人型を釘にて立木に打ちつけて、呪はんとする悪行あり。是等は念力を通じて思ふ男を怨み倒さんと謀る嫉妬心の強烈なる現はれにて、遂げずば止まじ。我生命もものかはと云ふ熱烈なる行法なれば、念の力に比例して気光素は働く。故に念力強烈なれば、気光素も猛烈に働くなり。
 自在論及び行法に於て示めされたる如く、気光素は破壊性にも組織性にも働く。気光素は一方に偏れば其作用も亦一方に傾く。故に破壊線に傾けば徹頭徹尾破壊せねば止まぬ力を持つに依て、念力を通ず。されば気光素は善行悪行の区別なく用ひらるるままに働くものなれば、悪魔にも亦善魔にも従ふなり。気光素は唯一の力にして法を表はす機械の動力とも云ひつべければなり。仏教に説く観音の妙智力とは気光素を云ふならんか。念力より起る暗示作用は気光素に依って、其希望を達せらる。然れども念力はもし二心ならば通ぜざるなり。悪にもあれ、善にもあれ、何れか一方に偏る念ならざるべからず。たとえ悪なればとて善心に妨げられ、又善なればとて悪を考ゆることあらば通達は難し。
 ここに二人の幼児を教育するに、甲を善人に、乙を悪人に育つと仮定せよ。其結果は如何にと云ふに、甲児は善を行ひて善と思はず。乙児は悪を行いつつ悪とは思はざるべし。善と知らずして善を行ひ、悪と知らずして悪を行ふものに対して、神は賞罰を与え給ふかと云ふに決して然らず。唯二者を育てたるものなれば審くなり。然らばこの二者は如何になるべきやと云ふに、空源力の働きによりて前者は栄え、後者は衰ふるに至る。所謂人盛にして天に勝ち、天定まりて人に勝つと云ふ言葉の如し。念力は通ずとも悪念は亡び、善念は亡びざるなり。俗に人を呪はば穴二つとの言葉あるにあらずや。
 念力の力を援助る気光素は死人を蘇生せしむることを得。又生命を奪ふは易きなり。然れども空源力は神の力なれば、気光素の作用を自由に変化せしめて、或は働かしめ、或は停止を命ずることを得るなり。其理は前にも述べたる如く、気光素は空源力より産み出されたる力なればなり。気光素を作らんとせば、先づ念の心を起すべし。然して其念力の程度強ければ強き程、気光素は現はれ居ると思ふも可なり。
 気光素は四線に通じて含まれ居る故に、何処にも影を宿せばなり。怒れば憤怒の形相となり、悲しめば頸うなだるるも気光素が頭をもたぐる故なり。念を起せば思いに応じて、気光素は起れど働きをなさしめずば元に復す。例へば我是をなさんと考ふる時、気光素は何をなすかと云はぬばかりに待ち受け居るなり。然して彼を殺せと命ぜられば、その善悪を糺すことなく殺し、活かせと命ずれば活かすなり。もし命ずる者の心ためらはば気光素もためらいて、何れかに断定するを待つ。念力と気光素は斯る関係におかれたるものなり。

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