覚者慈音660  未知日記 第三巻  念力集 現セイキョウ貴尊講義

覚者慈音660
未知日記 
未知日記 第三巻      
念力集     
        その1      暗の巻
       念力と暗示


                 ミキョウ貴尊講述
                 テッシン貴尊講述
                 円海大師講述


 人の性は善なりと云ふ事は、神より受けたる魂を指すなり。故に本心に立ちかへる時、神の道に帰るは当然なり。人の将に死なんとする時、其言や善と云ふも是なり。若き時より殺生を好む人の死期迫らば哀を感ずるに至る。積悪の報、呵責の責苦は堪え難し。是を仏教にては因果応報と云ふ。唯因果応報とのみの一言にて、現代人は満足し得るや。因果応報に相違なけれども、何故にその報がと思うならん。
 今是を一層深くほり下げて観察すれば、最初物の生命をとりし時、其ものの断末魔が、己の心に映じ、其が一種の記録となりて消えず、度を重ねるうち馴れて印象はかくされ居るなり。是等は暗示となり得るものにて、心の改悟に及びて記録の数々は表面化し来りて、其罪状に責めらるるに至る。是には次ぎに述ぶる理論あるなり。
 最初、彼が殺伐の心を抱ける時は、特殊の興味に誘はる。例へば銃猟に際し、獲物を求め得たる時、唯一発の弾丸を放射する迄の彼の希望は、唯殺生の善悪とか、或は不憫などとか云へることを脳裏に考ふるいとまなく、獲物を得ると云ふ悦びの満足を得んと計る悪戯に過ぎざるなり。然して最初の一発が命中せざる時、彼の心の動揺は変化し来り、倒さずば止まじとの敵愾心は高潮して初めて真の殺生心となる。即ち気光素を破壊性に誘導したるなり。斯くて彼の希望が成就したる時、彼は満足を感ずれども、気光素は次第に減退し行くなり。
 一方動物に於ても唯恐怖に囚はれて逃げ惑ひ居たるが、もし死の苦痛なく死するものならば、彼は念を残ざるも、其が苦痛苦悶して死するならば念を残す。然れども其念は人間の気光素に比して遙かに劣るゆえに、敵愾することあたはず。唯暗示を送りしにすぎざるなり。然るに其暗示は消滅せずして後に現はれて復讐するに至る。是四線の法則による現象なり。 
 暗示には一時の効果を現はすものと、又永久の時間をすぎて現はるるものの二種あり。前者の場合は暗示を受けて直ちに現はれ、後者の場合は程経て現はるるなり。然して動物には言葉なき故に心の動きを暗示として映じをきたるものにして、其が人間には幻影に、或は言葉に組織されて表はれ来るなり。又些細なる暗示が永久時を経るに従ひて増大することあり。即ち狐狸が人をばかす等の暗示にして、学者の中にも信ずる者あり。是等の暗示は、暗示より暗示へと重なりて残りたる現はれなり。小児時代に受けたる暗示が学なるに及びても尚残りて、其働きに悩まされ、却って狐狸の仕業と信ずるに至る。又狐の嫁入り、狸の連続火なども、蜃気楼の現出と心つかず、其暗示作用に結びつけて狐狸の仕業の如く考ふることも見らるるなり。
 自己暗示と他より受くる暗示、又念より受くる暗示との三種あり。自己暗示はさのみ心に働くこと少なきも、他より受くる暗示、念より受くる暗示は、心身をいたむること甚だしく、わけても念より受くる暗示は極めて力ある働きにして、其苦痛も従って大なり。故に恨み怨まるる念の重ければ、相方ともに慎まざるべからず。

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