覚者慈音654  未知日記 第一巻 行法 気光素の作用と其力 テツシン貴尊講義

覚者慈音654
未知日記 
未知日記 第二巻  行法    
第六     気光素の作用と其力     
      その二
         
                 テッシン貴尊講述


 唯宗教者は来世を説きて脱せしめんと計れど、是は仲々の苦痛を伴ふがため、行半ばに至らずして倒るる者多し。然れども我等が説く処の法は決して斯る憂いなきなり。
 ミキョウが汝等に縛を解きて古き習慣を捨てよと教へたり。汝等は是を何と聞きたるか。無理なる教へと思ふや。行法にて説き示さん事を約したり。汝等は心の安楽を計らんために肉体を通じて得んとするか。はた又肉体にのみ安楽を与へんとするかを考へ見よ。即ち肉体の満足は心の満足なりと思ふならん。然らば期する処は如何なる方法によっても、心の満足を求めんとするにあるならん。要は是なり。肉体より受くる安楽は古き習慣なるを以て是を捨て、我説く新しき法を修得せよと教へたるなり。他に楽みを求むるにはミキョウの説きたる如く、親を慕ふことにして、即ち眼に見えざる親を求めて見ゆる事を先決問題とするなり。例へば囲碁、将棋に耽る人は少しばかりの病苦は忘るるものなるにみても、其理はうなづかるべし。親に会う楽みは即ち心を楽しませて少しの病苦も感ずるものにあらず。
 さて此希望に燃ゆる心が、一歩親に近つかば肉体よりは一歩遠ざかるは当然なり。故に楽みは日一日と増す。楽み増す毎に気光素の芽は出で来りて、根を張り枝を生じ葉を繁らせ花を開かせ実を結ばば、真に人間の嬉しさは有難さが始めて知られて、神の尊さを感ずるに至る。気光素の作用と力は一切に通ず。故に悲む人に対しては是を慰め、怒る人に対しては是を柔らげ得るなり。されば仏教に云ふ摩訶般若即ち広大なる智慧とは空源力を云ひ、智慧の親と心の子との融和にて生じたるを気光素と名づくるものにて、是を作り出さんとするは即ち行法なることと知るべし。             

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