覚者慈音647  未知日記 第一巻  行法    伊東慈音

覚者慈音647
未知日記 
未知日記 第二巻  行法    
第三     正しき道を求めよ     
      その三
         
                 テッシン貴尊講述


 今牛と午とに考へ及ぶ時、午にコンマを加ふれば牛となり、牛の点を消却すれば午となるの例は明瞭に理解し得べけれども、百円一銭の場合一万一銭となる時、点は何れに入りたるかは判明せざるなり。何となれば一万一銭は銭に入りたる如くなれども、百の数は万に上りあればなり。何れにもあれ我は数学を論ずるにはあらず。この点なるものが道のために働く力の如何に大切なるかについて論究を進むるのみ。我云はんとする処は、牛の点をとれば午となり、入るれば牛となる例の如く、一万一銭に円を入るれば百となり、外せば銭となると云ふに重点をおくべし。自他と云ふ其間には点ある故に、和合せず。自他より点を払へば一となりて融和す。自は他に、他は自に帰すべし。故に汝等は我にして、我は汝なることを知らん。身に綺羅を纏しめ上座に坐すとも愚者は愚者なり。粗服を纏ひて末座に座はるとも智者の徳は輝く。肉体のものは他人に与ふることを得れども、智慧は愚者に与ふること困難なり。我、汝等に説く処は、身につけし衣の如く、必ず汝等の身に纏はしめんと思ふなり。なり難きをなせよと云ふにはあらず。なせば必ずなし得ることを教ふるなり。行いは考ふる事なく行ふべし。思案に耽れば光陰は容赦なく進む。道は数多あり。故に人は迷ふ。然れども安全なる道は少なし。故に択ばざるべからず。人の作りし道は中途にて迷ひを起さしむ。神の力にて作られし道は遠く見ゆれど近く、苦く覚ゆれど苦しからず。険はしく見ゆれど険阻ならざるなり。汝等旅行してよく体験することならん。案内者は云ふ。旧道は近けれども険阻 なり。新道はいささか遠くとも安全なりとか。人の作れる道は斯くの如く得失あれども、神の力にて作られし道は永久不変にして唯一筋あるのみ。歩めば達す。自ら足を働かせば達するなり。行くと思ふも帰ると思ふも迷ひなり。不去不来と云ふはここなり。斯く語らば汝等は又むづかしく不思議なることを云ふものと考ふるならん。むづかしく考ふる勿れ。汝等は始めより神の力にて授けられたるにあらずや。始めより神の家に住みながら、何処に行かんとする! 肉体あるが故に斯る迷ひを生ず。何処より来たると知りなば帰る処も定るべし。されど汝等来りし処を知るや。来りしを知らずして何処に行くか。斯く説き示めさば汝等も正しき道とは即ち、神の作られし道なりと悟りたるならん。斯く悟り来らば従って道を歩むの意味も自づと理解されたるならん。神の道は行くも帰るも要なし。歩めとは道を修めよと云ふなり。儒者は云ふ。朝(あした)に道を聞かば夕に死すとも可なりと。我是に言葉を添へん。今道を修めなば直ちに滅すとも可なりと。

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