覚者慈音646  未知日記 第一巻  行法    伊東慈音

覚者慈音646
未知日記 
未知日記 第二巻  行法    
第三     正しき道を求めよ     
      その弐
         
                 テッシン貴尊講述


 今汝等は渺々(びょうびょう)として果なき砂漠に在り。草木の育成するなく、駱駝の足跡もなく、空は曇りて日も照らず、夜は月星の影見えねば方角を定むることを得ず。懐中を探れど磁石も無し。斯る場合に遭遇して汝等は如何になすや。空の晴るる迄其処に臥して待つや。危機は刻一刻身に迫る。ああ何とすべきか。此時汝の親は云ふべし。
 「我子よ、歩め。方角を定めずともよし。汝の歩は空しきにあらず。このふみたる足跡は残りて後に来る者の指導とならん」と。
 味を他人に語るを得ざれば、其食を与ふればよし。盲者に色を示さんよりは音を聞かしめ、聾者に色を示さば足る。鳥獣の言葉は通ぜずとも、彼等を憐む心あらば彼等は感ずるなり。肉体本位より脱して始めてさらさら解決を見る。故に肉体本位より脱せんとせば即ち出家論の必要となる。
 出家と云へば汝等は僧侶を聯想する故に、理解にも困難を伴ふなり。出家の文字に囚はれるとも宗教者を考ふる事なかれ。肉体を出でよと云へば、身心を分離せよと考ふるは不可なり。日々汝等の身体は地球にひかれ、心は空間にひかれ、やがては分離するなり。我の説く話し方は、汝等に死せよと云ふにあらず。出家せよと勧むるなり。我、汝等の思ひを知る。汝等は肉体は家を出づるも宿あり、借家あり、部室もあり、又同居も許さるべけれど、心の家は何処に求めんか。又如何にして出づるべきや。智慧あさき者よ。信仰うすき者よ。斯く迄説きても未だ肉体に囚はるるや。よく考へ見よ。然ある事を知りたる故、出家論の中途にて数学の論旨に歩を進めたるなり。数学によりて知りたる如く、汝等の肉体は点の集合ならずや。僅かに小さき五尺の身体に囚はれて何とする。河に落ちたる子の母は、己の溺るる事も弁へず、水中に投ずるにてはあらずや。斯くの如きは我身を捨てたる一例なり。然れども斯ることは無分別なる捨てかたなり。地球上には百億の人ありとせば、汝の家も百億の同居すべき家あるにてはあらずや。世の中に無智なる人の中にも、我身を少しも顧みず、他のためにのみ尽くす人あり。是等も出家したる一部なり。斯く説きても汝等は尚他に方法を求むるや。尚も合点が行かざるか。無智の人の他の人の事を思ふは修養の力によりて、真の道理を究めたる結果によりてならば、気光素の発揚は完全に行はるるなり。是等の人は放心法の見本とも云ふべきなり。零コンマ零に於て、コンマが上位に上昇せらるることは少なきも、下部に導入せらるれば、融和する例に基きて牛の例を用いたり。コンマを附せざれば午にして、午にコンマを加ふれば牛となるの例を現はしたるにすぎず。くだくだしかりし論旨も概要は斯くの如し。故に今は後に残されたる点の重要性について説かざるべからず。然らざれば本来の正しき道とは如何なる道を云ふかに対しても亦諒解しあたはざればなり。



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