覚者慈音645  未知日記 第一巻 行法 正しき道を求めよ  テツシン貴尊講義

覚者慈音645
未知日記 
未知日記 第二巻  行法    
第三     正しき道を求めよ     
      その壱
         
                 テッシン貴尊講述


 道を歩むべし。道を行くと考ふる勿れ。汝等は肉体を持てるによりて何事を見聞するにあたりても、肉体を中心本位として考ふる傾きあるを以て、完全なる物の真相を握ることあたはざるなり。汝等喰いて其味を他に知らしむる言葉ありや。辛酸甘苦を除きなば如何? 音を聾者に語る法や如何? 色を盲者に語る法や如何? 汝鳥獣と語り得るや。是等は皆肉体本位になる故なり。
 出家すると云ふは家を出でて、寺に入ると云ふにあらず。是は寺入りなり。出家と云ふは肉体の家を出づる事を云ふなり。肉体本位より霊本位に入ることを云ふ。数学に於ても零は大切なり。零なくして数学は成立せず。然るに零と零は加減乗除は行はれず。然して零の数多ければ、整数は増し負数は減少す。故に零点零に於て始めの零は整に属し、後の零は負に属す。是を考ふる時、先の零は神に向はんとし、後の零は肉体に向はんとするなり。一点を取り去らば、零は自由となるは必然的なることを知らん。其点こそ真に注意を要するなり。線は点の運動にして、面は線の運動なりと云ふも通ずべし。さらば全宇宙は如何に大なりと云ふとも、帰するところは点の延長なりとも云ひ得らるるべし。汝等は数学を学ぶとも物体に囚はれて、斯る事を見のがし居るにてはあらざるか。思ひもかけぬ処に思ひがけぬ真理ありと云ひしもここの処なり。肉体に受くる物質主義に重点をおくが故に、物の大小に囚はれて却って大なる事を失ふこと多し。
 零コンマ零に於ける一つの点に於ても斯る大切なることを見のがし居れり。汝等は神の力と同化することを得ざるもこの点に煩はされる故なり。零コンマ零のコンマを消却して融和の道を講ぜざるべからず。例へば百円一銭に対して円をコンマとすれば、一万一銭として融和せられることもその一例なるべし。
 何故に斯る事をくだくだしく語るかに依って、汝等は諒解に苦むならん。よって其謎を解くべし。我汝等に正しき道を求めよの題名の始めに道を求むべし。行くと考ふる勿れと云ひ、次ぎに又出家論を説き、直ちに数学に移るなどとりとめなき事のみと不審するは尤もなり。
 我、この事は計画ありて進めたる論旨なれば、暫く忍びて耳を傾けよ。昔、さる大名多くの家臣を集めて曰く、
 「汝等の中に一匹の牛を切りて、生きたる二頭の獣を作り得るものありや」と、云ひしも誰も答へず。此時一人の小姓言へるよう。「牛の角を切れば午となる故、生きたる二頭の獣となる」と答へたりとぞ。此話を聞きて汝等は成程と云ひて後に笑ふならん。成程は心に感じたりとせば、笑いしは何によりしか考へ見よ。
 「アアそうか、成程」は、外部より来り、笑ひしは反射作用なりとせば此わづかの時間に判断し尽くしたる笑ひは、普通の心の智慧の働くものにあらず。此笑ひには理由なかるべからず。己に悟り得ざりし無智を嘲笑せし笑ひなるか、否、然らず。さらば理にして理にあらざるが故に笑ひしか。然らず。唯訳もなく可笑しくなりたる笑ひなりと云ひて、其以上を究めずば真の覚りは得られまじ。
 この問題を解決せんとして心の扉を閉じ居たる時、思ひがけぬ答を得て、生理的に笑ひを催したりとの解決も尚真の答にてはあらざるなり。然らば正しき回答ありやと訊かば何と答ふべきや。考へに沈む時、この問題には大なる方法あらんと思ひ悩めるに案外平凡なる処に、いささか滑稽なる回答にてけりのつきたる故に、反射作用によれる笑ひなる事を知らば解決せらるべし。是は一つの例に過ぎざれども斯る小さき事に対しても注意深くほり下げて、其理を究める迄は必ず捨つべからず。斯くすることこそ即ち行法の要訣となるなり。

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