覚者慈音637 未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音

覚者慈音637 未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音
未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音
第五章       自在観
第四節       自在の境地  其の2
               
       
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 例へば四線の法則に依って水と油を交はらしめたる時、即ち一如となる。是を水として用ゆべきか、油として用ゆべきか。是は水なるか。はた又油なるか。是を使用する方法によって水の代用ともなり、又油の代用ともならん。然れども是は清水にもあらず。又清油の役をも果すことを得ず。清水の本領清油の本領を失へる不純の交りにして、正しき交りにあらざる事は、汝等も知る事ならん。空源力は悪魔も利用すと云ふ理論も理解せしならん。此理は水は水としての個性を失せしめ、油は油としての個性を失へばなり。故に水と油は共に自在を得るに至らずして終るならん。鉋を笏に代わることを得んやと説きしも是なり。神官神官、大工は大工たらずんば、真の自在を得る事難し。神官笏を捨て、大工とならば更に其苦を増すのみ。大工も神官とならば又然り。天理に合はざるを以て、労して苦むとも其甲斐なかるべし。
 蓮は泥中に咲く。泥は蓮を咲せしか。蓮また泥に染まずして咲きしか。
泥は蓮を育ててはずかしめられ、蓮は泥に育てられて賞せらる。
もし蓮にして心あらば、泥に謝するならん。
人間は相対性に馴れすぎて、斯かる例さえ弁えず、唯蓮にのみ感心するは
泥に対して余りに無情ならずや。蓮はもとより清き個性を泥によって全うす。
泥は不純をかこつにあらず。唯人の眼は清濁を称ふるにすぎざるなり。
善悪融和せば泥と蓮の関係あることを知らしむる方便の器と知れば可なり。
人間は浮き世の泥に交わるとも最後は蓮の如き処に往生すべしとの教へを
なせるものなり。


 


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