覚者慈音635 未知日記 第一巻  自在論 孫たちへの遺言

覚者慈音635 未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音
未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音
第五章       自在観
第三節       親子不可分    其の2
               
       
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 霊と霊は直ちに融和結合すれども、心と心は障壁あるに依って、容易に融和せず。心に基きて考へ見よ。霊と霊は共通性を持ち、心と心は融和性を欠くと考え来るとき、融和せざる相互の心と心の隔を取り去らば、如何なる結果となるかと云ふ事なり。
 心と心の隔を取り去るとも、霊と霊の如くならず。例へば霊と霊は水と水の如し。又霊の交はりは、一つの屋根の如く、心は部室と部室との如し。交はらんとせば襖を開らき、然らざれば襖を閉ずるに異ならず。俗に合せ物は離れものと云へるは面白き言なり。又兄弟は他人の始まりなどと、心と心の融和容易ならざるを云へるならん。然れども霊は神の力を知るを以て、心を育つるが故に、修行修養の達したる真の人は心のみにあらず。禽獣虫魚に至る迄融和する事得るなり。是即ち心霊を一如ならしむるに依る。
 肉体の食をむさぼる人は多くとも、心の食をむさぼる人は少なし。況や霊に食を捧げんとする人あらんや。斯くの如く個々別々にして、焉んぞ心身霊の三味一体の融和を計るとも得べけんや。身を省みて深く反省すべし。
 汝等花を見るは眼を娯しませんとてか。或は心を娯しませんとてか。答を得るの要なかるべし。心の楽みを計るならば何故霊を慰めざるや。親をなほざりにして己のみ娯しみて、其が人間の道なりとは云ひ難からん。汝等早く父母を閉ぢこめたる部室の鍵を外してむかへよ。然して父母の前に帰れ。父母は大なる愛を以て汝等を抱かん。融和は愛に依ってなる。愛なくんば融和は望み難し。愛、愛、愛する心を養ふは修行の極意なり。行者の深山幽谷に入るは、世を厭ふてにはあらず。肉体の欲求をさけて心の労苦を少なくせんとする愛より出でたるに他ならず。在家するとも愛の力は養はるべきなり。



孫への遺言


 今朝、中3の孫から電話があった。今から車を取りに行く。冬用のタイヤに交換するから車を家の前に止めておくようにとのことだった。五分もせぬうちに車を嫁と運び去り、一時間も経たぬ間に車を玄関前に着ける。僕は孫に云った。「こんなこといつから出来るようにようになったんだ」孫達の体躯はいまは僕よりも遙かに大きくなり、力もある。孫達の逞しい成長を真に喜んだ一日でした。この二月の大雪の際には、高1の孫は父親と一緒に大屋根に上がり屋根雪を降ろして呉れた。父母の薫陶宜しきを得て知らぬ間に身心共に成長している。有り難いことだ。持つべきはやっぱり男の子だ。男子三日会わざれば刮目して見よと云うがこのことか。
 先日、その高1の孫が我が家に来て、僕がパソコン入力している姿を見ていた。彼は未知日記の原書を眺め、幾つか判読不能の言葉があったが概ね理解したみたいだった。この子供達が大人になり中年を迎える頃、僕がいまやっていることの重要性を必ず理解認識することになるだろう。その時にはもうお爺さんもお婆さんもこの世にはいない。乞い願わくば僕たち老夫婦の遺言としてこのブログを開き幾度も幾度も咀嚼し反芻し、お前達の精神、否魂に刷り込んでもらいたいもんだ。
今は一日五〇名の来訪者があるやなしやの閑散静謐をきわめるブログだが、時と共に必ずや隆盛の機運をもたらすことだろう。僕個人がやっているのではない。天使の方々が応援されているのだ。こんな心強いことはない。日本一むつかしいブログ、それでいて日本一重要なブログ。そして軈ていつの日か世界人類を目覚めさす起爆剤となるブログ。こんな稀有壮大な大義を持つブログって今迄世の中にありましたか。恐らくは皆無。ありようはずもない。僕はほんの僅かのお手伝いをさせて戴いているだけの一介のボランティア-にすぎず。すべての御意志は貴尊方の手の掌にある。僕は唯自分の分野の小さい任務を粛々と遂行するのみ。
 この間、よそのブログで神霊を語るものをチラット見たけど実に低劣なるものを神として崇め称えていた。それがなんとアクセス数が月に何万とある。世の中馬鹿げていると思うは僕だけか。実に苦々しく嘆かわしいしいことだ。是が日本の神霊学の実状かと思うと実に暗澹とした気持ちになる。玉石混淆ならまだしもこれは汚泥と砂利との混じりあいだ。


 この全宇宙の支配者である真の神、そのおそば近くで働かれて居られる真の天使の仕事を僕のような無能のものがさせて頂ける幸せは人にはおそらくわからないだろう。僕は全巻これをネットに乗せたいと思っている。不都合な身体ゆえ途中で倒れるかも知れない。そうしたらこの孫に全託するつもりである。兎も角、人は何のためにこの世に生を受け、それぞれの使命を持つかという事の重大性を今迄の人生で考えてもみなかったが、今は少しずつ自覚しつつある。
そうか、これが人間一人一人が持つそれぞれの天命を知ると云うことか。知らずして危うく枯れ木か埋木となってこの地に埋没するところであった。寝て起きて喰い死なばがったりと云う味気なき人生だけはご免だ。しかし世の多くの人達は自分の天命を知らずして朽ち果ててゆく。そんななか未知日記全巻の転記、是が完成したなら僕はこの世に生を享けた意義を心底感受することができそうだ。なぜならこのブログを読み且つ、行じた人達の中から釈迦、キリストに比肩する新たな人類が数多く今後輩出される可能性があるからだ。いわば貴尊方による救世主生誕プロジェクトだ。もし嘲り嗤う者がいたら今迄の僕のブログの骨子だけでも読んでみたらいい。特に厳戒の辞の章だけでも幾度も幾度も精読されることを懇願する。あなたの心を、否魂を変革させる詞(神の言葉)だ。僕はこの辞の威徳を世に知らせんがためだけにブログを始めた。それ以上の他意は少しもない。


「我等の教へは次第に普及され、一部は削除せらるるあれば、一部は加わる等あれども原本はその儘残されん。各国は奪い合ひて是を読み、東洋は東洋人に、西洋は西洋人に委ねずば永遠の平和は望まれじとの声喧(かまびす)しくなり、日本を滅ぼすなかれの声、次第に起り来たらん。慈音よ汝の努力は決して無意味にはあらざるぞ。悲観せず気力を落とさず、教主の命に従い、生命あらん限り教へを受けて是を中外に発揚せよ」


貴尊のこの言葉はいつも僕を発憤させてくれる。

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