覚者慈音632 未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音

覚者慈音632 未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音
未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音


第五章       自在観
第二節       縛より脱せよ    其の3

               
       
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 昔さる処の国王、孝子を賞美せんとて其親子を召し出して賞を与へんとせり。孝子父の許可を得て、後是を納む。国主、孝子に問いて曰く
 「汝、如何に考へて孝をなすや」
彼答へて
 「我、父母より尊きを知らず。父母の言葉に従はば、すべては正しと思ふのみ。孝にはあらず」と
国主又問ひて曰く、
 「汝が親より尊きもの数多あり。即ち村長国主君神とあるにあらずや」
孝子曰く、
 「村長も国主も人なり。父も時を得ば村長、国主とならんも計り難し。君と神とは、我未だお姿をも拝せし事あらず。故に我にとりて親より尊きはあらず」
国主、重ねて曰いけるは
 「汝、もし親を失はば如何にすべきか。又誰を尊しとなすや」
 彼、曰く、
 「何日かは別るる事あらんと親よりは聞けり。是は余儀なき事なり。されど我親は天に上りて神の前に仕ふることと我は信ぜり。故に父母天より我行為を見守り給ふと思へば、我は是に従はんのみ」と答へしと云ふ。
 此人こそ真のさとりを得たるにて、清浄無垢の心なり。利福の衣を脱したらば、先づ此心身に附着せる垢をぬぐひ取らざるべからず。清浄ならざれば光なし。又此ままに捨ておかば悪き虫の犯す処となる故なり。心身を清めて始めて爽快の気漲る。世には我気儘にして焼きなほさずば治らずと臆面なく語る人あり。斯る言葉は許すべきにあらず。何となれしば彼は横車を押しても、是を我儘気儘なりと押し通さん為の方便なればなり。是非共に理論の余地なからしめんとする横着心なればなり。垢離の論説の前に先立ち斯ることを記さば、汝等は不審を抱くならん。然れども是には深き理由あるを以てなり。
 我儘気儘と云ふは神を離れたる動物性本能を現はせたるものにして、神は是を厭ひ給ふなり。斯る小なる事をと汝等は考ふるならんも、神の法則と人の法則とは異なる云へるはここなり。大と思ふ事も小なるあり。小と思ふ事もきはめて大なる事あり。垢離する時もしも斯る思ひ起らば、直ちに親に詫びて早く気を換へるべし。
 白布に落ちたる一滴の墨汁は容易にもとの白布にかへる事能はず。我儘気儘はその墨汁に異ならず。然して墨汁は薬品もておとすことも可能なり。然れども我儘気儘を通さんとする人の心は、焼き直さずば大なる罪と化して現はるべし。空源力は絶対なれば物の大小は無きなり。
 

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