覚者慈音624 気源体性

覚者慈音624


未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音
第三章       気源体性


第七節



              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 暗示法に依りて種々の業を行ひ得れども、万人悉く行ひ得べきものにあらず。唯自己の気光素を保持し得る底の業は万人に通ず。人には個々別々の特有性を、神より授けられたれば、其天職を活用することに依りて使命を全ふすれば可なり。魚は海河に泳し、鳥は空間に遊ぶ。是使命なるに等し。音楽家は音楽を、学者は学を本分とす。
 然るに音楽家が鍬や鍬を、学者が鎌を振ふも効なきに似たり。悪魔は神の眼を避くれども神の道を歩むを知るや。悪魔は空源力を知りて是を以て己が希望を全うせんと計るなり。神の力は悪魔善魔の区別なければ用ゆるとも力となる。
 例へば大名の通る道を乞食盗人も歩めり。然れども悪人は暗きを好み善人は明るきを喜ぶ。又盗人は警官を怖れ、旅人は悦ぶ。何事もこの破壊と組織の道理を悟り用ゆべし。世に行はるる催眠術は、術者が被術者に送る言葉と気体との暗示なり。然るに被術者の気光素勝れたる時は、却って術者が感応することあり。又被術者が気光素多ければ感応せざるなり。然れども被術者の気光素を低下せしむる法もあるなり。催眠術にかかり易き人は短命なりと云ふは気光素少なき基因す。空想する人は感応せず。其は心常に乱れありて一如の境涯に達せざる所以にして、気光素に基因するにあらず。自己暗示法にも種々の方法あれども、大概気光素の原理を応用せるにすぎざるなり。唯異なる処は自ら精神の統一を計る方法は、稍々理論同じけれども行ひを異にするなり。一般千里眼とか市子巫子などは、その自己暗示法を用ひ暗示がよく徹底したる時は必ず適中すれども、暗示に支障を来す時は狂ひあるなり。例へば巫子なぞ他より求められたる時、依頼者の気光素の多ければ正しきを得ず。依頼者の人格低くければ、必ず適中するなり。

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