覚者慈音620未知日記 第一巻  自在論  気源体性について 現セイキョウ貴尊講義

覚者慈音620   未知日記 第一巻  自在論  伊東慈音


未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音
第三章       気源体性


第二節
              インショウ、ミキョウ貴尊講述



 破壊線と組織に依る日常生活を営まば、決して疲労倦怠を感ずるの憂なく、業もさらさら運ばるべし。心に求めてなす業は進み欲せざる業は進まじ。手馴れた業は進み、然らざるは過失を重ねん。是何故なるかを思惟せば、其方法は工夫さるるなり。手は物を作り、或は破壊する道具なり。然れども心は光と気の集合を云ふに依りて、手にのみ任せて物を作らさば過失多きは道理ならずや。心より掌に命じ、手を動かさば、道具機械はその命に従ひてよく働き疲労を感ぜざるなり。手に掌なる光と気とありて、本心に一脈相通ずる光気の集合ある事を人間は悟らざるなり。
 唐人は人間は尽きより生れしと解したるか。又肉体の光気を知りてか、肉体の名称の多くは月偏を附せるも面白し。肉体に於ては少時休むところあれど、四六時中休みなきは呼吸と脈拍なり。是等と雖も精しく分解すれば、息は呼気と呼気の間に僅少の休みあり。又脈に在りても一動と二動との間に休みあれども、大体に於て休むことなし。怒れば脈拍数を増し、悲めばその数を減ず。故に此理は常に心の平ならんことを祈るべし。怒り悲みあらばよく両親に告げて後許されなば行ふべし。人には其々余裕を持たさざるべからず。許されなば怒るべし。其怒りは真の怒りなり。許されなば悲むべし。其悲みは真なればなり。其怒り悲み依りて、破壊すとも決して破壊にはあらざるべし。喜び娯みに於ても亦然り。


第三節


 行ふてなし得るは道理にして、理に合ひてもなし得ざるは理に似て理にあらず。神の力は論旨の至り及ばざる処に深き意味を有するを以て、人智は是を不可思議とす。其理を知るに及びて、始めて不思議は消滅するなり。俗に「朱に交はれば共に赤し」と云ふ。神に従はば心清くならん。心清ければ身も亦清し。身心共に清ければ、病苦の憂ひ少なからん。扇子の要強ければ紙は少しく古びたりとも風涼し。紙新しくとも要なくしては用ゆるに困難なり。要は人体の如何なる処にあたるや。
 地球の表面は何処が表面にて何処が裏なるや。何処が暗にて何処が明なりや。表裏一体の関係ならずや。然らば理外の理と云ふ事も忽ちになす事を得じ。組織には分解性を有するは相対なるが故なり。絶対組織、絶対破壊には分解融和は含まれざる事知るべし。
 風は空気の動揺ならば、是を起す力は扇子に異ならじ。酸素と水素に分けられたる空気は絶えしか。然らば空気は何処より如何なる理によりて組織されたるかを考へて、是を肉体に応用して得る方法を組織法とす。又破壊法も是に順ずるなり。
 地球の三分の二は水なり。海なりと聞く。もし此海を埋め尽さば空気は減じて生物は生存することを得ざるべし。動物は空気によりて生存を全うするにてはあらざるか。是を肉体について考ふれば即ち呼吸なり。呼吸は息なり。息とは生きるの意味ならんか。生命長きを生くると云ふにあらずや。即ち呼吸は生き得る力の原動力ならずや。人間臨終にあたりて末期の水を求むるにてはあらずや。すべて動物はみな然り。故に水は空気と共に大切なる生命を助くる宝なるに、人は余りに是を重視せざるなり。肉体のうち肺と腹は呼吸して消化を助くと聞けり。清きを入れ悪しき出して身体整ふ。肺と腹との関係は恰も車の両輪の如し。又肝臓と心臓も同じく、是に順ずるなり。左手と右手との関係も是なり。 

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