覚者慈音618    未知日記 第一巻  自在論 第二章   伊東慈音

覚者慈音618  


未知日記 第一巻  自在論 第二章   伊東慈音


第七節
 自問自答の行法          

              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 汝等我心(がしん)を強くせば、汝等が親は汝等幼児をして自由に遊ばしめんとして部室を広くし、己、隅にありて身を縮むるなり。故に汝等は我心を捨て、両親の居を広くすべし。如何にせらるるとも子の為には、親は不平を唱へ給はざるなり。
 両親に仕ふる心深ければ神の恵の力も亦深くして、汝等が身に光り加はるは疑なきなり。謗りは破壊を意味す。もし謗る心起らば、汝が親に訊ねよ。謗る心は破壊なれば罪あり。人を謗らば汝が心に傷く。即ち罪なり。汚れなり。心は身と共に清くして穢れざることを願ふ。喜怒哀楽は心の曇りなり。心の曇りは汚れと罪なり。我より求むる娯みは一秒の夢にして、神の力より受くる楽みは尽きざるなり。俗に瓦となりて全からんよりは玉と砕けんとか云へど、砕けて何の益やある。玉として全からしめずんば、瓦となりても全きを得んと云へば、世人は狂人と思ふならん。近頃軍人が玉砕と云ふ言葉を用い居れり。軍人としての天職を全うするは死にあらずして勝つにあり。敗けて玉とは何の事ぞや。
 我、其言葉を咎むるにあらず。其内に潜在せる或種の事情によりて計り知れざる処に罪あるを咎むるなり。もし戦争に破れなば聖上の御心に御悩みある事を知らば、恐懼此上なかるべし。斯る事を論ずるは余技なりと思考する勿れ。余技にはあらず。後に高天ヶ原につきて説き示す事あればなり。故に是をも破壊説に加へたり。
 さて自問自答する行に於て、説き示す事あればなり経るに従ひ、親の親の声は我問の終らざるに、其答へを聞くに至らん。のみならず親より何くれとなく、我、問はざるに教へを受くるに至るなり。例へば朝汝に来る人あり。其人は何々の要件をもたらすべし。是には斯く斯くしかじかに計ふべしなどと教へらるるなり。斯くして親子の情こまやかになれば、其修行は充たされたるなり。此方法は日常の一切に於て親に相談して行はば、何時も爽快に元気溌剌として、物に屈託なく不安なく明朗なる生活をなす事を得べし。
故に家族にも此法を授け共に行ふべし。始めに区々まちまちにして意見を異にすれど、互いに進まば必ず一致するなり。故に楽みて行ふ心を生じ、家庭も明るくなる事を得べし。




×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。