覚者慈音613  未知日記 第一巻  自在論 第一章   伊東慈音




第  三節   
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 
 始めなく終りなき全宇宙は絶対にして、終始ある宇宙太陽系は相対なり。然れども不変性元気力即ち空源力は、其全宇宙の大気なるを以て終始なし。終始無きが故に絶対なり。絶対即相対、相対即ち絶対に帰す。恰も伎倆同等の剣士が相対するに等し。相互に隙なきが故に顔面血と汗を生じ、果は相疲れて共に倒る。是絶対の働きの然らしむる所以なり。又陰陽の電力が等分なる時、発電せざる如く見ゆれども、然るにはあらずして剣士の例に等し。即ち光体性と気体性との対立は、結合して空源力に帰する時、相対即絶対となる。又不結合に依りて相対となるなり。
 空源力の原理を修得せば、通力自在にして悪魔の力如何に秀でたりとも是を犯すことあたはず。故に悪鬼羅刹は近寄る事すら為し得ざるなり。此法を会得するには、自己自身の、「人となり」より原理を推知すべきなり。所謂この「人となり」と云うは、皆其々に持つ個性を指す。個性は天より受けし使命なればなり。是に従い是に応ずるは天理に合ふこと疑いなし。故にこの特性を生かさん為に、空源力の応用を学ぶこと肝要なり。空源力はその何たるを問はず、其何たるを択ばず広く一般に用ひらるればなり。空源力の働き整ふ時始めてこの個性は成就すること、食に依りて飢餓を凌ぐに異ならず。



第  四節


 
 空源力は絶対なるが故に、他の宗教の誇張する三世論の教へとは、其意味大いに異なる処多し。即ち時間空間を超越したるに依りて、永久不変なれば、肉体の有無は光体性及び気源体性に属せしめて、唯空源力に依ってのみ、すべてを処理し達成を計るなり、肉体本義に於て、一方に偏らば相対性となるを以て、論議の余地を生じ、甲論乙駁の醜態を醸す。然れども絶対性には斯る余地なければ、真のどうりにして屈することを得ざるなり。神に奉仕へて神を知らず。仏に仕へて悟道を知らず。洗礼を受けて天国を知らざる宗教者も僅少ならざるは、単に相対性なるを以て労して効少なし。
 我、ミキョウも地球に在りし頃、この苦に悩まされたり。ここに注意を要することは個性を其儘にに引用して、空源力を整調することなり。他の教へにては唯己が信ずる教へを、他の何たるをわきまえず、其教へにのみ従はしめんとするに依り、天より受けし使命を果すことを得ざるのみならず、その教へに依りて解脱すること能はざるは、天理に反する当然の理なり。
 例へば天より東に行けと命ぜられたるに、其人は西に極楽ありと聞きて西に進まば、天の使命を果す能はざるに至らん。天の命に従はば速にその希望を全きを得ん。のみならず是に依って、自づと極楽は得らるる事火を賭るよりも明白ならん。東する者は東に充ちり。西する者は西に道あり。南北みな然り。大工左官是又道あり。徒に出家得道を要せん。笏(しゃく)を以て鉋(かんな)に代ることを得んや。


第 五節 


 
 徒に心を労するは天理に逆行するに依りてなり。空源力に帰せば労もなく、苦も亦あらじ。一切は水の低きに流るるが如し。汝等が住める処には春夏秋冬あり。春には春の個性あり。夏秋みな然り。春を秋に代らしめんとすれば、労苦と艱難を伴ふ。春は春の儘に秋は秋の儘に其妙具はることを知らば、徒に労して秋に代らん事を望まんや。
 地上には雨降らずして植物枯死し、叉大水害起りて総てを流失し、或は大風を以て倒壊する等の被害惨害ある時、人は神を怨み仏を恨むにはあらずや。是宗教家の説く処にあやまちある所以なり。
 空源力の理よりすれば、雨降らざるも水来るも風吹くもみな予知されて、来るざる先に其処置を行はしむれば、被害惨害より免がるることを得るなり。喰はずして神に祈るとも、腹を充すことを得じ。斯る理を知らざる宗教者の多きは、みな是一切を神に帰せとする弊害より出でたるなり。
 空源力に依らざれば真の神を知る事あたはじ。何となれば此力は神の力なればなり。神は白衣を纏ひたる白髯の老人にもあらず。又恐ろしき姿をなせる怪物にもあらざるなり。空源力すら弁へずして神を知らんとするは、愚なる事なり。乞食しながら神に召さるるあり。大名となりても地獄に堕するあり。智者は智慧によりて身を亡ぼし、愚者は貯蓄を他人にほどこして善行を積む。是みな空源力の妙味とや言はん。





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