覚者慈音609  肉体をはなれたる修行をなす勿れ

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                                      其の159
    第五     来世の希望は如何
     四     肉体をはなれたる修行をなす勿れ                                             其1                        リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 汝等が今迄の我等が説に従いて修養の道をとやせんかくやせんと思い惑う結果、真心を得るには先づ肉体をすてざるべからずと考うれば其は大なる誤解なり。不必要なる肉体ならば天是を授けざるべし。必要あればこそ授けられたるは道理に合うならん。汝等この微妙なる関係を誤解して唯肉体をすてんと考うる勿れ。肉体によって真心を得んと計るにあらざれば正しき修養とはならざるなり。肉体と精神との戦いを早く止めて身心一如の和を作らずば望みは達しがたし。肉体は肉体の行動にまかせ精神は精神の行動にまかすと思わばそは誤解なり、精神は精神、肉体は肉体と別個にとり扱はば即ち肉体と魂とは分離されたるにてそは肉体を放棄して無意義のものに化せしめたるに他ならざるなり。
 天地化せずば世は保たれじとの説あり。天地一体とは即ち身心一如の理に合うと知りて工夫せざるべからず。身と心が互に和して心は身をいたわり身は心をいたわりて互に育てあうならば其にて一如の望みはかないたるなり。身と心との融和を計ることによって霊の力は相互に及びて全くさとりは得らるるなり。仏教者はこれを仏凡一体の境地と称へ居るなり。
 人生若き頃は未来に望みを抱きて励み居れど、老いて尚その希望が満たされずばその人は世を呪う他なかるべし。即ち若き時代の望みの置きかたのあやまちなるを知らずして唯偉き者にならんとのみ考へあるによってその望みが達せずば世を呪いはては身を傷くるに到ることはしばしば見聞するところならん。人生の望みは真心を求むるにありとの思いを貯へて肉体と計り相互に助けあいて希望より希望へと進むによってこそその思いは達せらるる道理あるべし。
 よく我等耳にするところなるが人間は何日迄生きても何等楽しみはあらじとは云へ死するも不可なりと厭うは何故ぞ。狂歌に「にくまれて世にすむ甲斐はなけれども可愛がられて死ぬよりはまし」とか云へるを聞きたり。老いて楽しみなければ早く死せよとすすめらるるもその命には従うものなきは何故かを考へ見よ。そこには何か未だ希望をつなぎあることに思いを致すならん。又云う臨終に苦しみさへなくば何時にても死に度しと称し居るものもあれど是等も真実心より悟り居るにあらず、唯一時の境涯にあきたる結果の言葉にすぎざるならん。是等より推察すれば老者も何か生存中にある無形の希望をつなぎあることも推して知ることを得ん。是等の理を考うる時唯無意義の説を我等は語り居ると汝等早合点なす勿れ。是等の真意にはその中に潜在しある一種の何ものかは含まれ居ることに心がけよとすすむなり。
 総じて人は常に肉体にのみ囚われて生活と云へば肉体の事のみに思いを致し真心を忘却してながらへ居るため老いて肉体の自由を失うに至らば、ここに始めて肉体の希望は失はれて死にたしとの諦めを生ずるに至れど、さて死せんと思へどなすあたはざるは即ち肉体に宿り居る精神が否真心がここに頭をもたぐるによってなすことを得ざるなり。真心より死に度しと考うるに至らば決して躊躇するものにあらず。但し精神状態が変化して発作的に自殺するものはあれど、そは或場合真心より死せんと計りたるにあらねば誤解する勿れ。真心が死を明らむるに至らば其は既に稔りたるにて正しき死後を得たるなり。故にもし真心より死に度しと計る如きに至らば決して自殺などなすものにあらず。真の心は死を明らむると共に生をも明らむる力を有するが故なり。仏教の経典に生死の中に仏あらば生死なしと云へる句あり。生死の中の仏とは即ち覚者なるべし。覚者とは即ち真の心にあらざれば悟ることはかたし。真の心は仏教に云う仏なりと思はば可ならん。故に肉体のすべてを悟り又心のすべてを悟らば互に融和して何れにも偏せざる生活をなす修行修養を行ずるに至らばここに霊の光明は輝く。此理をよくよく明らめて己に架せられたる使命の何なるかを認識し、然してその天分に従いて行動なさばこれ即ち天道を正しく歩む人なりと云うなり。是に反せば道をふみはづして転落するは必然なりと思いてあやまてる行為をなさざるよぅ心がくること肝要なり。





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