覚者慈音606  三世と四世論  真心を求めよ  セイキョウ貴尊講義

                                           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                                       其の156
    第五     来世の希望は如何
     二     真心を求めよ                                                     其2                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 汝等はかくも本末転倒なしたる行いをなしながら其を当然と心得居るによって戒律をいましめのなわとして厭うならん。所謂不自然を自然と誤解し居るによって真の自由は得られざるなり。されば早く肉体の機械を運転して完全なる精神の組織をなさんことに思いを致して努力せざるべからず。汝等が口にする自然とは肉体本位により観察なし居る自然にして、我等が語らんとする自然は精神自然を語るによってここに順逆の相違となるなり。故に自然に返らんとするには先づ肉体より真心へむかうにあらざれば正しき自然は得られざるべし。求むるものは即ち真心なり。世の中の人類悉くを真心に立ち返らしむれば世の中の安楽境は得らるる理も亦察することを得ん。肉体本位なるが故に甲乙の区別あるによって種々様々の争闘を誘発すれど真心に立ち帰らば、すべては一体となるによって争闘をひき起すことはなかるべき道理あらん。
 さて真心とは何か、又真心を求むる法とは何かを知らざるべからず。真心を求むるには種々様々の方法は説かれあれど是を正しく求め得たる人はすくなし。真心とは所謂真の心、真の心なるが故に微動だもなさざる底のものにして他より是に害を加へんとなすとも決して傷くものにあらざるを真の心と云うなり。惑い惑はさるる底の心は是真の心にはあらざるなり。如何なることに遭遇すとも微動だになさざる本心、是ぞ真心即ち真の心と云うなり。真の心とは即ち魂魄が霊に和して一体化なしたる姿を真の心と云うなり。故に方法とは即ち魂魄霊三位一体となるにあらざれば得がたし。されど是をなさんがために専門的に行ずるものは即ち難行苦行を重ぬるにあらざれば得がたしとなして説明し又実行にうつし居れど専門ならざる衆生にはかかる難行苦行を行ずるのいとまなかるべし。そは肉体の機械に重点をおきあるが故にたえて行いをなすことを得ざるなり。誰もが難行苦行を重ね居て日々の世渡りをなし居らば人類の生存は得がたきによってなり。然りせば行者ならざる一切衆生は本心に立ちかへるを得ざるかと云うに然らず。是には種々様々の方法はそなはりありてこの数々の方法のうち己自らが欲する処に従いて行じ居らば必ず真心は得らるるなり。是自然の法則なるが故なり。求めて得ざるは自然に順ぜざるが故に目的を達するを得ざるなり。
 試みに汝等聖書を開きて考へ見よ。汝等の読法と修養修行のつみたるものの読法とには相違あらん。万軍の神エホバ何と何を戦はしめたるか。所謂下界の地理を応用して歴史化せしめたる宗教者のあやまちより却って人智の進むに従いてその解釈をあやまたしめあることに気附くならん。人は肉体本位より様々の悪行を敢てなすによって真心よりの呵責にせめられて苦しむならん。故に真心と肉体との争闘は常にたゆることなかるべし。国と国との戦をエホバがなさしむると説きたるは歴史に真相を伝へしめんと計りて却て今日の如く解釈をあやまたしめ居るにてはあらざるか。されど是を仏教者の云う如く大乗と小乗が両立なしたると見なして読むならば、その真相の真髄に触れて己が迷夢より醒むることを得んと我等は思うなり。汝等かかることにすら認識なすことを得ずして徒らに書を読みて迷いを深くなさばキリストの教へは画餅に帰せん。仏教に於ても亦同様の理あるなり。深く思惟せざるべからず。

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