覚者慈音601

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                                      其の151
    第四     無言詞界の広さと深さについて
     五     退く来世と進む来世                                                 其2                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 禅門の公案に資料に「風うごくか、旗動くか」、答へて曰く「旗動くにあらず、風動くにあらず、汝が心が動くなり」と云うあり。是等も振子の理と同様にして動くにあらず、動かされあるによって動くものは是を見る人の心こそ即ち動きあるなり。動くと云う言葉と動さるるとの言葉には同様の言葉の如く思わるれど、その相違はきわめて大なり。動かされざる動きにあらざれば正しき動とは云い難し。静又然り。相対性には動静の区別あれど既に絶対となれば動静一如なるが故に動として観察すれば動と化し、静として考究すれば即ち静となる。我等かかる哲学めきたる論説を掲げしは他ならず。不去不来の境地とは来らんとすれば去る底の自由なる世界にあらざればの真の不去不来の境地は得難し。来らんとすれば来り、去らんとすれば去る底の理はかくの如し。来るも去るも動と思へば動と化し静と思わば静に帰す。不去不来は動静これ一体ならずば正しき自由の望みはかないがたからん。斯くの如き道理より来世は進むところにあるか、或は退く処に来るかをきわめずばあやまちたる世界にふみ迷う結果となる恐れあり。故に斯る標目を掲げたるなり。
 汝等進む来世を求むるか、退く来世を望むかの竿頭に立ちて深く思惟するの要なかるべからず。水は高き処より低きに流る。是自然の法則なるべし。されど水の高きより低きに流るるは現在にして来世を此水にとりて考へ見よ。水は熱に依って水蒸気となり低きより高きに上るにてはあらざらるか。是も即ち自然の法則なるべし。相対性の道理にて斯くの如き二種の自然法則は成立しあるも帰するところは絶対自然の流れが注がれ居て是が分離されてかくも二種に区分せられたるなり。然りとせば此降下上昇の二つを一本化せしめたる自然ならでは絶対には帰しがたからん。然らば是を絶対化せしむる方法は如何にと云うに汝等の心は肉体によって高低を思い浮べあるによって水は高きより低きに、低きより高きにと見るならん。されど此高低の考へをすてて更に検討し見よ。然る時は高きよりひくきに、低きより高きに至るにあらずして即ち或循環性動のはたらきと考うるに至るべし。所謂高低なければ水は唯循環なし居るにすぎず。是を一如の法則として凡てに及ぼさば相対性世界にありても絶対の区別は想像することを得ん。是又自然の法則の一端なり。来世は如何あらんと考うるが故にこそ迷いは生ずるなり。如何あらんと迷う心を離れて後にあらざれば正しく来世に進むことは難し。来世を如何に考うるとも亦考へずとも来世は会釈なく来るならん。此理は汝等もかねて覚悟なし居るならんと我等は信ず。確定信仰より生死のあることは既に汝等諒し居ながら尚その生死の区を明らむるを得ず。是は何によって迷うか。迷うとも迷はずとも生者必滅の理は会得なし居る汝等にして尚且つ何か一種の不安を感じ居るにてはあらざらるか。不安とは信をはなれしが故に起る現象にして信ずる力あらば不安は清浄せらるる筈なり。迷うも亦信より生ず。信ずるも亦迷いに他ならず。故に信仰は絶対信仰にあらざれば正しき信は望まれざるなり。所謂動中に静あり、静中に動ある理と同様の関係ありとして考究せば自づと真の信は得らるる道理あらん。迷うとも迷わずとも生者必滅は確定なし居るにてはあらざるか。さらば迷わんよりは信ずる力によって是を更に拡大して来世に入らんことを、否来世に進まんことを願うに不如と我等は思うなり。




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