木石の恋


 
 いまほど、ふみまろさんのブログで彼の初恋体験が書かれていた。それを読み僕も触発されて筆をとってみた。文中に倉田百三のことばが書かれていた。僕も学生時代彼の作品をよく読んだ。この倉田百三なる作家のことは今の若い人はご存じないだろう。
彼は旧制一高時代に「愛と認識との出発」と云う論文を出し、当時の文学青年達の耳目を集めた作家です。あの金沢大学で教鞭をとられた哲学者である西田幾多郎の「善の研究」のことにも言及し、一躍時の人になられました。「出家とその弟子」などは僕も何回も読みました。歎異抄の作者とも云われるあの唯円坊と少女かえでの恋を中心にして演劇は始まります。でも今は図書館にも置いてないように思います。おそらく地下の書庫にでも仕舞われて居るのでしょう。興味のあられる方は一度読んでみてください。


 僕も全くの木石ではなく、いまは遠き昔、人並みに高校時代には初恋をした。こんな事云うと、なにか取って付けたように思われるかもしれないけど、その相手の女性はとても日本的で寡黙にして心根も優しく綺麗な女性だった。
同学年で、クラスは同じ。しかしその娘は可哀相に顔の四分の一近くが紫の濃い痣で覆われていた。あばたもえくぼではないがその痣すらも僕には綺麗に見えた。そして夢に現れるほど恋い焦がれてもいた。
 当時運動会になるとフォークダンスがあって、男と女が二列にならび、運動場一杯の輪になって踊ったものでした。ああ、もうちょつとであの娘と踊れるなとわくわくしていると、そこで音楽はストップし、新たな曲がかかる。すると進行方向は逆になってまたまた離れてゆく。とても残念に思ったことを覚えている。
ある時、学校の休み時間にその娘が僕に教科書を忘れたからと借りに来た。現代国語の本だった。国語が大の苦手で教科書など開いたこともなく新品同然のものだった。僕もあわてて鞄中を探し、そのまま慌てて彼女に渡す。その時が彼女と話した最初であった。多分二言か三言の短い会話だった。それが彼女と眼を合わせ、言葉を交わした最初の時であった。僕はとてもどぎまぎしていたことをいまも憶えている。あとで気が付いたことだけど、三〇点か四〇点位の答案用紙も入っていた。その本を返しにきて、なにか書き付けはないかと一生懸命探した。するとあった。現国の教科書の中の雪舟の絵の横に小さな文字で「わたしって、こんな絵がスキ」とだけ書いてあった。
その時は、暮れの定期試験が始まる直前でね。ホントは徹夜で勉強しなきゃいけなかったんだけど、僕は試験勉強を全く行わず、毎日毎日慣れぬ小筆でその雪舟を模写した。沢山書いたな。一週間以上やっていたと思う。いまもその画を朧気に憶えている。絵心のないものでも努力は必要だね。自分で云うのもおこがましいけれど、かなり上手になった。それを年賀状に清書し、一番うまく描けたやつを彼女に出した。相手の家族が読むと困るので、文章は辞書を片手に英語で書いた。


「I never forget you for ever and ever」


 当然定期試験の成績は惨憺たるものだった。後日担任から呼び出されることになった。年賀状の返事が正月あけて一週間も経つのにこない。だが、ようやく来た。
正月休暇を利用して金沢に行った為に、返事が遅れたことが認めてあった。それからは、朝の登校時間に偶然会ったようにして並んで歩いた。彼女は云った。小さい頃から私は将来、尼寺に入ると決めているんだ。親もそうするようにと勧めている。そんな寂しいことを云っていたな。それと小学生の時男の子からよく虐められたことも話した。辛くて自殺しようと思ったことも幾度もあったそうだ。教室にはコークスを燃やすストーブがあって、毎日ストーブ当番が決められていた。だけど僕と彼女は始業の一時間も前に学校に行き、当番に代わり教室を暖めた。学校の小遣い室に行き種火の炭とバケツ一杯のコークスを運び、彼女と一緒にストーブの前に座り、いろいろな話をした。僕の家族には学校に行って一人で勉強をするのだとごまかしておいた。そこで互いの家族のこと、友達のこと、これからの将来のことなどを話した。
やがて高校三年の生活は終わり僕は大学へ、その娘は金沢の親戚の家で手伝いをするようになった。車の修理工場だった。僕が一年生の夏、彼女が我家を訪ねてきた。髪は伸ばし、顔の痣はカバーマークと云う化粧品ですべて隠してあった。鮮やかな黄色のワンピースを着ていた。僕は云った、
「本当にきれいになったな。見違えた。町であっても誰もK子だとはわからない」
「そういう、あなただって、変わった。今はめがねをかけるようになつたの、全然別人になったみたいよ」と
翌日、彼女の家をはじめて訪れた。母親が玄関先に出てこられ初めて挨拶をした。ニコニコよく笑いながら、よく来てくれたねと云ってくれた。このお母さんも娘同様、悲嘆にくれて悩まぬ日々は一日としてなかったに違いない。
出来うれば娘と代わってやりたかっただろうな。優しい人だった。その後、文通をしたり、僕が読んで感動した本などを送った。
「出家とその弟子とカラマゾフ兄弟、それにアンドレ.ジッドの狭き門」だった。
一年ほどして見合いをする話を手紙に書いてきた。僕も彼女と結婚したい旨を家族に話した。家族は20歳のお前にそんな事云う
権利はないと反対された。経済基盤もなにもない学生が言う事じゃないと自分でも思った。東京に帰るときはいつも金沢周りの上野着の夜汽車に乗り、途中で金沢で下車して彼女に会った。相手はトヨタの営業マンですぐに返事が欲しいとのことであった。
「僕は何も今は決められない、K子の人生だ。お前が決めろ」と僕は彼女に決定権を委ねた。僕はその痣のある娘を将来もずっと愛せるかどうか自分に自信がなかった。生まれてくる子供達、そして近隣の人との付き合い、正直かなり僕も悩んだ。それから、時間が経って彼女は結婚した。子供にも恵まれたことを友達を介して知った。それから10年程たって、彼女の父親もたびたび我家に足を運んでくれてその後懇意にさせて戴き家で食べる米なども毎年わけてもらっていた.或夏の日、その父親から電話があり、いま蔵で我が家の書画骨董を虫干ししているところだ。よかったら見に来ないかの連絡があり、早速僕の父親と一緒に沢山の掛け軸などを見せてもらった。戦時中都会から米と引き換えにそれらを手に入れた旨を話しされた。何年か後その方はお亡くなりになった。勿論、その方の葬儀にも列して彼女の顔を見た。とても懐かしかったことを昨日のように思い出す。その何年間の間、僕は彼女の手すら触ったことが一度もなかった。
これが僕の淡い初恋です。
 いま逢えば僕がブログをやっていることを話すだろうな。そして未知日記を読むように勧めるだろうな。もうあれから五十年もの歳月が流れた。いやまったく爺さんになったもんだ。なんだか弘兼憲史の《黄昏流星群》に出てくるストーリーみたいだ。題して木石の恋とでも銘うっておこう。どんな名も知れぬ辺境に住む人にも一つや二つ、心に残り、終生忘れ得ぬ大事にしている黄昏流星外伝はあるものだ。読者諸兄の皆さんもその外伝なるものをこの際それを吐露されてみては如何。
嗚呼、ブログっていいもんですね。ふみまろさんのブログがなかったらこんなこと書く機会がなかった。遠い昔を今日あらためて思い起こすことができた。又残しておけば孫が読むかも知れない。どうかk子さん、いつまでも元気で。
 なんと先日高校1年の孫が彼女を連れて我が家を訪れた。血は争えないものだ。僕は真顔で彼女に問う「ところでお二人さん、式はいつ頃あげるの」と
娘は変な爺さんって顔をして笑っていた。初恋の思い出は大事にしとくもんだ。亀井勝一郎がどこかで云っていた。「恋愛は大いなる誤解にはじまり、結婚とは惨憺たるその理解である」と
追記
 今思ったことをここに記しておこう。過去世に於いて僕とあの人とはどんな因縁があったのだろう。僕と彼女の邂逅はおそらく前世、その亦前々世においてもあったに違いない。今生初めての出会いと考えるのは間違いだ。一度結ばれた魂と魂の霊線は永遠に切れない。来世また違った時空での再会がおそらくあるのだろう。肉身での記憶はなくなっても魂にはしっかと刻印される。互いの魂がこの大宇宙を探し求める。今生きている人達はみんなこの大宇宙を永遠に彷徨して迷い続ける旅する旅人だ。「ヤァ-、又お逢いしましたネ。前世のその節は色々お世話になりました。今生もまた宜しく」そう、みんな旧知の間柄なんだ。人生の愛憎悲喜劇、それを唯忘れているだけなんだ。貴方も私も。

先日、高校の同窓生と逢った時、彼女の現在をなにげなく聞いてみた。沢山の子宝に恵まれて今も元気に暮らしていることを聞いた。

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