覚者慈音592

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                    其の143
    第四     無言詞界の広さと深さについて
     一     自然と不自然                                    其1                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 先づ無言詞界を神の世界として考うる時、ここに自然と不自然の区を明らかに知りおかずば先にも語りたる如き迷信を真として行ずるに至る恐れあらん。されば正しき自然と不自然を如何に区別して行ずるかを考へざるべからず。
 汝等が口にする人の性は善なりとの言葉は自然に合うか、不自然に相当するかを先づ考へざるべからず。人の性は善なりと称するならばその善とは即ち自然を指すなるべし。然る時は悪行は不自然なりとも見ることを得るならん。自然より出でたる不自然、此不自然は何に依って現われしかを検討せざるべからず。是を考うる時言葉によりて現わしたる自然と事実に於て考うる自然とには何かそこに異るもののあらざるかを追究して工夫せずば正しきさとりは得られざるべし。人の性は善なりとの言葉を表面に現わしたる以上是は言葉に組織せられたるならん。されど是を逆上って考うる時、その言葉の組織せらるる以前は、即ち無言詞に相当するならん。無言詞より有言詞に移り来り更に有言詞が分れて自然と不自然即ち善と悪とに区分せられ其が更に分れて善悪邪正となり其より其へと別れて言葉は現出し、現出したる言葉が更に実在化して行動に移さるるに至る。然りとせば無言詞より有言詞、有言詞より実行にと形が整い来りたるならば是を宇宙の原理に順じて考へをめぐらすことによって全宇宙の自然或は不自然等は明らかに認識することを得るは敢て至難の事にはあらざるべし。さとりとは即ち是等の迷いを順次逆上って無言詞界に到達せしむるにあらざれば正しき悟りは得られざるなり。斯く語らば汝等は無言詞界とは絶対自然を指す無言詞界と考うるならん。是即ち迷いなり。絶対自然とは既に言葉にて云い現わしたるなれば是無言詞ににはあらざるなり。先づ言葉なき自然なるが故に絶対とか、或は絶々対など称うる自然を清除して全く言葉なき自然にかへらずば正しきさとりは得られざるなり。
 全宇宙の真髄は言葉にては現わし難し。自然と称するも亦言葉なり。故に是等も清除せざれば無言詞とはならざるべし。我等言葉に依って汝等を導かんとなせど全く言葉にては誘導なすことを得ざるが為言葉ならざる何物かを汝等に与へんとしてここに意を用い居るによって汝等に教ゆるに言葉なき言葉を深く心底に通ぜしむる方法として、斯くも曖昧なる言葉を弄して苦心なし居るなり。もし言葉に依って汝等を誘導することを得るならば其は無言詞とは云い難し。言葉なき所にさとりの妙味を感ぜしむる法あることは汝等には到底理解することを得ざるべし。されど汝等屈せずたゆまず我等の教へに信をおく力さへ養い居らば正しき自然の法則に依って明らかに来世を信ずる力を養育すること得るならんと思うなり。その原理を簡単に説明するならば不確定なる事柄を確定に認識せしむるならば、信仰はここに確定して汝等が脳裏に刻みつけられることとならん。知らざることを知り得るは是さとりの一端なるべし。自然の法則にはかくの如き道理あるなり。所謂自然にも亦無言詞自然絶対自然相対自然の区別あるによってなり。汝等の世界は即ち相対自然に依って、凡ては成立なし居れど此相対自然にては正しきさとりを得ること難し。今一歩是を進めて絶対自然に入らしめ更に進んで無言詞自然に対せしめずば真のさとりとはならざるなり。此さとりを得る人幾何ありやは我等も疑問とするところなり。されど此自然の妙所を明らめずば真の自由は得られざることも亦当然なるべし。



 難しい教えですね。僕の凡庸な頭では少しも理解できません。唯誤字脱字などがないかそれのみ気をつけています。貴尊方は理解できる人が唯一人でも居られればよいのでしょう。なにしろ仏菩薩を養成するための学問ですから。日本一むつかしいブログ。天界の学問。覚者になるための学問。無言詞道場の学問。
是は鎌倉時代の宗祖である法然、親鸞、道元、日蓮等などの高僧が読み、漸く理解する書物なのでしょうね。

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